【豊臣兄弟!】清兵衛(伊藤健太郎)&盤覚(坂口涼太郎)は実在?史実で探る「秀長vs興福寺」激突の裏側:2ページ目
高い年貢を納め続けたわけは
清兵衛のポイントになるのは「仏罰を恐れ高過ぎる年貢を納めていた」という部分です。
年貢は「神仏への捧げ物(仏物・神物)」
中世の寺社領では、土地やそこから得られる収穫は「神仏との結びつき」のなかで捉えられることもありました。
年貢も、現代の税金とは異なり、寺社の運営や法会・祭祀などを支える意味を持っていました。
「神仏の土地から得たものだから納めなければ」という意識が、年貢を納める動機になっていたのです。
興福寺の圧倒的な支配力と保護
前述したように、興福寺は衆徒・国民を組織し大和で大きな政治的・軍事的影響力を持っていました。
寺社領の側から見れば、年貢を納めることは単なる経済的な負担だけではなく、支配関係を維持する意味も持っていたと考えられます。
社会的・慣習的な拘束
荘園の仕組みそのものが「寄進」を基盤に成り立っていました。
年貢の減免を求める動きはあっても、年貢制度そのものを否定することは難しかったのかもしれません。
田の広さと年貢が合わなくなった理由
それでは、なぜ「田の広さに見合わない年貢」が生まれたのでしょうか。
その理由として挙げられているのは「古い土地台帳」です。
中世の荘園では、年貢の基準となる土地面積や斗代(段当たりの年貢量)は、過去の検田帳(検注帳)など、古い帳簿により把握されていました。
けれど、長い年月が経てば、実際の耕作面積や収穫量と帳簿上の数字にずれが生じることもあります。
それでも、寺社など領主側は「古くからの権利」とし、簡単には減額を認めなかったケースもあったようです。
「昔からの慣習・権利」を変えるのは簡単ではなく、しかも相手は宗教的・政治的権威のある興福寺。
領民たちは、年貢の額が高くても、簡単に値下げを求められるような状況ではなかったのでしょう。
秀長は興福寺から1万石もの所領を没収
天正13年(1585)、秀長は大和郡山城へと拠点を移し、新たな国づくりに乗り出します。
秀長は寺社に対して『指出』を命じました。
指出とは、領主たちが支配する土地や収入などを申告するための文書で、不正点は書き直しを命じられます。もし、偽りの申告をすると土地を没収することもありました。
新しい領主となった秀長は、土地と収穫を把握し見直しを考えたとみられます。
同年、寺院は1日がかりで「指出」を書き出すものの秀長はその内容を問題視。『多聞日記』によると、興福寺から1万石もの所領を没収しました。
その後も再提出を命じ、同年9月には興福寺の所領をさらに減額し、最終的には興福寺の領地は五分の一ほどになったそうです。

