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【豊臣兄弟!】蜂須賀正勝(高橋努)の息子は徳川へ…父の志を継ぎ豊臣家滅亡まで見届けた家政の生涯【後編】

【豊臣兄弟!】蜂須賀正勝(高橋努)の息子は徳川へ…父の志を継ぎ豊臣家滅亡まで見届けた家政の生涯【後編】:2ページ目

秀吉の死から関ヶ原まで

やがて慶長3年(1598年)に秀吉が世を去り、豊臣政権の重鎮であった前田利家(大東駿介)も慶長4年(1599年)に世を去ると、豊臣政権はいよいよ揺らぎつつありました。

家政はこれまでの怨みとばかり、加藤清正・浅野幸長・福島正則・黒田長政・藤堂高虎(佳久創)・細川忠興(ほそかわ ただおき)らと共に三成の襲撃を図ります(七将襲撃事件)。

また嫡男の蜂須賀至鎮(よししげ)と家康の孫娘である万姫(まんひめ。敬台院)の婚姻を進めるなど、明らかに親徳川派として活動するようになりました。

晩年の秀吉にはついていけなかったし、三成には恨みがあるし、そして家康に恩義と三拍子そろってのことでしょう。

一方そのころ、妹の糸姫が嫁いでいた黒田長政から離縁され、蜂須賀家へ返されてしまいました。どういう訳かくわしくわかりませんが、それからというもの、蜂須賀家と黒田家は役120年間にわたって断交したということです。

豊臣政権内の分裂はいよいよ深刻化した慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝を討つために兵を起こすと、家政は至鎮を従軍させて自身は大坂城に残りました。

これは病気が理由だったとも、家康の不在を守るためだったと言われています。しかし中国地方から毛利輝元(濱省吾)が大坂城へ入ったため、親徳川派の家政は身柄を拘束されてしまいました。家政は豊臣秀頼(秀吉遺児)に阿波一国を返上して出家し、高野山へ上ります。

やがて家康が関ヶ原の合戦(対 石田三成ら)で勝利すると家政は呼び戻され、本領を安堵つまり阿波一国を返してもらったのでした。

しかし家政は現役に復帰する意思はなく、至鎮に家督を譲って隠居したということです。

3ページ目 豊臣家の終焉を見届ける

 

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