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【豊臣兄弟!】信吉に甘すぎ!見えた秀吉・秀長の違和感…信長三傑・滝川一益の栄光と悲劇——第35回考察

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本能寺の変が奪った栄光。滝川一益の転落

ところが、1582年(天正10年)6月の本能寺の変を境に、一益の運命は大きく傾きはじめます。

信長の死が関東に広がると、それまで同盟関係にあった北条氏が攻撃を仕掛けてきました。

このとき一益は上州の諸将を集め、
「我等はこれから上方にはせ帰り信雄、信孝両公を守り、光秀と一戦して先君の重恩に報いねばならぬ。この機に乗じ一益の首をとって北条に降る手土産にしようと思う者は遠慮なく戦いを仕かけるがよい。私は北条と決戦を交え、勝ち負けに関わらず上方に向かう」
と述べたと『上毛古戦記』に記されています。

そして、その言葉通り、一益は約1万8千の兵で約5万の北条軍を迎え撃ちます。

神流川で一戦を交えた後、一益は上野を離れて伊勢へと撤退しますが、織田家の後継者を決める清須会議には間に合いませんでした。

これが契機となり、一益の立場は急速に悪化していきます。

失意のまま伊勢に帰還した一益は、秀吉ではなく織田信孝(結木滉星)柴田勝家(山口馬木也)と結びます。しかし、秀長らによって北伊勢を制圧され、さらに賤ヶ岳の戦いで勝家が敗れると、ついに秀吉に降伏しました。

そして、小牧・長久手の戦いでは秀吉方として参戦。一益は旧領にも近い蟹江城を奪取しますが、徳川軍の猛攻を受け、わずか十数日で城を放棄して伊勢へ撤退しました。

今回の『豊臣兄弟!』では、傷ついた一益が大坂城を訪れ、敗戦を秀吉に詫びます。秀吉は一益の労をねぎらうように、「ゆっくり休んでくれ」といったニュアンスで対応しました。

そんな一益に対して秀長は「滝川殿!? ようご無事でしたな?」と話しかけます。

一益は、「お別れを言おうと思い、お待ちしておりました。一度は蟹江城を落として、これでまた儂も侍として返り咲けると夢を見た。しかし、すぐにまた奪い返された。もう、ウンザリじゃ。疲れたわ?」と述べて去っていくのです。

しかし、史実ではそうはいきませでした。蟹江城を保てなかったことを秀吉に責められた一益は、出家して越前大野に蟄居することになります。

その後、一益には隠居料として3千石、次男の一時には1万2千石が与えられました。一方、蟹江城の戦いに参加した嫡男・一忠は敗戦の責任を負い追放されています。

こうして、戦国大名としての滝川一益の時代は終わりを告げました。

ドラマでは、一益が去るときに丹羽長秀が「なら越前に来い。良いな、越前じゃぞ? それでたまに、儂の話し相手になれ。池田殿もおらぬ今、もう昔の話ができる奴がおらんのだ」と誘います。

「まあ、考えておこう。では」と応えて立ち去る一益。その表情は、無念さよりも、どこかほっとしたように見えたのは筆者だけでしょうか。

一益が亡くなるのは、小牧・長久手の戦いから2年後、1586年(天正14年)9月9日のことでした。享年62。

この間、一益は茶人としても活動し、出家後には秀吉を招いて茶会を催したともいわれています。

戦場を疾駆し、信長から大きな信用を勝ち得た男が、最後には戦国の表舞台から退き、茶の湯三昧の生活を過ごしました。

繰り返しになりますが、筆者は豊臣秀吉、明智光秀、滝川一益を「信長三傑」だと考えています。

その一益が、晩年に茶人として静かな時間を過ごせたのだとすれば、それは彼にとって幸せなことだったのではないでしょうか。皆さんは、どう思われますか。

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