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【豊臣兄弟!】信吉に甘すぎ!見えた秀吉・秀長の違和感…信長三傑・滝川一益の栄光と悲劇——第35回考察

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信長三傑の一人? 滝川一益という男

さて、筆者として今回の『豊臣兄弟!』で一番心に響いたのが、丹羽長秀と滝川一益のやり取りでした。

越前120万石余の大大名となった長秀は、小牧・長久手の戦いに参戦しますが、織田・徳川方についた佐々成政に対処するため、すぐに帰国しています。

そして翌年、1585年(天正13年)4月16日、51歳で死去。これはドラマの通り、秀吉、秀長とは最後の別れとなりました。

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そして、滝川一益です。

『豊臣兄弟!』では、残念ながら一益の出番はそう多くはありません。

しかし一益は、新参者として信長に仕えた武将の中でも、秀吉、明智光秀(要潤)と並ぶ出世頭であり、非常に優秀な人物だったのです。

一益の出自や若いころの経歴には不明な点も多いのですが、1525年(大永5年)生まれとされ、近江国甲賀出身とする説があります。また、鉄砲の技術に長け、30代前半には織田信長に仕えていたとされます。

一益の存在が大きく知られるようになるのは、1567年(永禄10年)ごろ、伊勢の北畠具教との戦いである北伊勢攻略戦のころからでした。

一益は織田軍の先鋒を任され、調略を用いて具教の籠る大河内城を攻略。その功によって北伊勢五郡を与えられています。

さらに1573年(天正元年)からの長島一向一揆との戦いでも重要な役割を果たし、長島城主となりました。

このように伊勢湾に面した領地を与えられたことで、一益は水軍とも深く関わるようになります。

長島一向一揆に際しては、九鬼水軍の総帥・九鬼嘉隆らとともに水軍を率い、海上から織田軍の攻撃を支えました。

また、1578年(天正6年)の石山本願寺との戦いである第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆の艦隊に加えて、一益自身も一艘の大船を率いました。この船は白く塗られていたことから「白船」と呼ばれています。

これが信長が造らせたといわれる鉄甲船だったのかどうかについては、現在も議論があります。

また、1580年(天正8年)になると、北条氏との折衝を行うなど、一益の活躍の舞台は関東へと移ります。そして1582年(天正10年)、一益は甲州征伐の先鋒として武田勝頼の滅亡に大きな役割を果たしました。

その功によって信長から上野国一国と信濃二郡を与えられ、厩橋城を本拠として、関東八州の警固と東国の取次を命じられます。

信長にとって東国は、まだまだ不安定な地域でした。そこに一益を置いたということは、それだけ彼を信頼していたことの表れだったのではないでしょうか。

4ページ目 本能寺の変が奪った栄光。滝川一益の転落

 

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