【豊臣兄弟!】遂に秀吉vs家康の直接対決、勝敗は?全国の猛将が結集「小牧・長久手の戦い」の結末:2ページ目
小牧・長久手での本戦
主戦場となった小牧・長久手(愛知県小牧市・長久手市)では、天正12年(1584年)3月中旬から4月上旬にかけて戦闘が繰り広げられました。
まず羽柴方の池田恒興・森長可らが先制攻撃を仕掛けたものの、徳川方の松平家忠・酒井忠次によって撃退されます。
やがて大坂城から秀吉の本隊が到着すると、両軍は互いに砦や陣地を構築し、戦況が膠着状態に入りました。
これを打破するため、池田恒興が秀吉に「三河中入り」を献策します。これは家康の裏をかいて三河国へ攻め込み、家康の後方を撹乱する作戦でした。
秀吉はこれを許可して池田恒興・森長可・堀秀政・羽柴秀次らを「三河中入り」部隊として派遣しますが、その動きは家康に察知されてしまったそうです。
中入り部隊は岩崎城(愛知県日進市)を攻略しますが、勝利に油断している背後には家康らの軍勢が迫っていました。
まず羽柴秀次の軍勢が奇襲を受けて壊滅。秀次はわずかな家臣たちと共に這々の体(ほうほうのてい)で逃げ帰ります。
この勢いで徳川軍は堀秀政の軍勢に攻めかかりますが、今度は返り討ちにされてしまいました。
池田恒興・森長可は家康本隊と決戦に及び、一進一退の攻防を繰り広げた結果、それぞれ討死してしまいます。
中入り部隊の劣勢を知った秀吉は救援に向かおうとしますが、本多忠勝によってその行軍を妨害されてしまいました。
ここで戦闘は一区切りついたため、家康は小牧山城(愛知県小牧市)に入り、秀吉は楽田城(がくでん。愛知県犬山市)に入って様子をうかがいます。
再び戦線が膠着したため、秀吉は羽柴秀長(小一郎)に命じて北伊勢国の諸城を攻めさせました。救援に出て来たところを叩こうとしたのでしょう。
しかし家康らは挑発に応じず、城の守将らに対して「援軍は送らないから、開城するよう」勧告したため、北伊勢の諸将は次々と羽柴勢に降伏していきました。
そんな中、秀吉は根来衆・雑賀衆・長宗我部元親らによって大坂城が脅かされているとの報に接します。秀吉は仕方なく大坂城へ戻ることにします。
6月28日に秀吉が大坂城へ帰ったと聞いて、家康も最前線の小牧山城を酒井忠次に預けて、自身は後方の清洲城へ移ったのでした。
それからしばらく経った8月16日、徳川方に動きがあったと見たのか秀吉は大坂城から楽田城へ入ります。家康も岩倉城(愛知県岩倉市)に入って再び決戦かと思いきや、小競り合いに終わっています。
それ以降は秀吉と家康の両雄対決は行われず、9月に和睦交渉があったものの決裂し、11月になってようやく和睦が成立したのでした。
