冗談のつもりが全財産没収!加藤清正の孫「偽の連判状ドッキリ」を仕掛け20歳で非業の最期を遂げる
江戸時代、多くの大名家が改易(所領全没収)の憂き目を見ていますが、中にはとんでもない理由で改易されてしまう大名家もありました。
今回は加藤清正の子である加藤忠広(ただひろ)と、忠広の子である加藤光広(みつひろ)のエピソードを紹介したいと思います。
果たして、どんな理由で改易されてしまったのでしょうか。
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肥後熊本藩の世子だったが……
加藤光広は慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が起こった年に誕生しました。生母は正室の依姫(よりひめ。崇法院)、彼女の母は振姫(ふりひめ。徳川家康三女)であり、光広は家康の曾孫に当たります。
【光広の略系図1】
……加藤清正─加藤忠広─加藤光広【光広の略系図】
徳川家康─振姫─依姫─加藤光広
光広が17歳となった寛永7年(1630年)に元服し、第3代将軍の徳川家光から光の一字をもらって光広(または光正)と改名しました。ちなみに父の忠広も、第2代将軍の徳川秀忠から忠の一字をもらっています。
やがて豊後守の官職に叙せられ、肥後熊本藩のお世継ぎとして順風満帆でした。しかし、その運命が急遽暗転してしまったのです。
いきなりの改易
時は寛永9年(1632年)、忠広が参勤交代で江戸へ向かうと、江戸に入る直前の品川宿(東京都品川区)で止められます。
そしていきなり改易の沙汰を受けました。忠広とすれば青天の霹靂、改易されるような覚えはまったくありません。
理由を問いただすと、国許で光広がとんでもない座興を行ったと言うのです(諸説あり)。
光広は諸大名の署名と花押(かおう。サイン)をズラリと並べた謀叛の連判状を作り、家臣たちを揶揄(からか)いました。それが即座に幕府へ通報され、加藤家は改易されることとなったのです。
加藤家のみならず、全国の諸大名家には幕府の隠密が入り込んでいたのでしょう。
それにしても、連判状に名前を記されてしまった大名たちは、とんだとばっちりです。彼らがお咎めなしで済まされたことを願わずにはいられません。


