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冗談のつもりが全財産没収!加藤清正の孫「偽の連判状ドッキリ」を仕掛け20歳で非業の最期を遂げる

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自害?毒殺?非業の最期

光広の身柄は飛騨高山藩主の金森重頼(かなもり しげより)に預けられました。わずかに月百口ばかりの堪忍料を与えられ、天照寺に蟄居させられます。

そして寛永10年(1633年)7月16日、光広は20歳の若さで世を去ってしまいました。死因は改易を恥じての自害とも、あるいは毒殺とも言われています。

祖父が槍一本から興し、父が懸命に受け継いだ肥後熊本藩を、自分の不覚悟から無に帰してしまった不甲斐なさを恥じたのでしょうか。

あるいは改易によって牢人を余儀なくされた旧臣の恨みを買っていた可能性も考えられます。

それとも、かくなる上は本当に謀叛を起こしてくれようかと血気に逸り、事態の深刻化を憂えた者たちに葬られたのかもしれませんね。

終わりに

今回は加藤清正の孫で徳川家康の曾孫でもあった加藤光広について、悲劇的な末路を紹介しました。

ほんの冗談で改易とは酷すぎると思う反面、冗談で謀叛の濡れ衣を着せられた大名たちとすれば、大変な侮辱でもあります。

江戸時代の武士たちにとって、忠義の真正は大変重んじられました。そのことを鑑みれば、やはり改易が相当だったのではないでしょうか。

光広の墓所は法華寺(岐阜県高山市)にあり、寺にはその遺品が奉納されています。

また一部の光広遺臣は帰農して現地を開墾し、その子孫たちが今も暮らしているということです。

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※参考文献:

  • 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年6月
  • 山本博文『江戸お留守居役の日記』講談社学術文庫、2003年10月
 

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