『逃げ上手の若君』時行のライバルで共闘者?足利尊氏との戦いに全てを捧げた諏訪頼継の生涯【後編】:4ページ目
決断の時!滅亡か恭順か…反尊氏を貫いた結末
頼継は信濃国内を中心に尊氏方の周辺勢力を交戦し、自領を守るべく奮闘を続けていました。
正平10年/文和4(1355)年8月、頼継は塩尻の桔梗ヶ原で北朝の尊氏に味方する甲斐守護・武田信春、信濃守護・小笠原政長と長基親子らと衝突。善戦したもののあえなく敗れています。
信濃国では、既に南朝方の勢力は衰退。頼継がこれ以上の抵抗を続けるのは難しい状況でした。
同年12月、諏訪下社領の塩尻郷金屋で北朝方に敗北。頼継は宗良親王から離れる道を選びます。
翌正平11年/延文元(1358)年、一族の諏訪円忠(室町幕府奉公衆)が頼継に降伏を勧告。しかし頼継は受け入れません。
尊氏が祖父・頼重と父・時継の仇であり、共闘した直義と時行のことを思えば、今さらという思いもあったと考えられます。
しかし決断する時は、突如として訪れました。
正平13年/延文3(1358)年4月30日、足利尊氏が京で病没。将軍職は嫡男の足利義詮が継承して二代目となりました。
これをもって頼継は室町幕府に降ることを決意。高梨氏らと義詮に恭順する道を選びます。
室町幕府を支える一員となった頼継は、それまでとは変わって南朝への攻撃姿勢を強めていきます。
正平14年/延文4(1359)年12月、足利義詮は南朝へ大規模な攻撃を開始。頼継も兵を率いて義詮に味方しています。
しかしこれをもって足利方の勢力と和睦したわけではありませんでした。
正平20年/貞治4(1365)年、信濃守護・小笠原長基と金屋で衝突。長基が塩尻郷の春近折中分を石清水八幡宮へ寄進したことが原因でした。
その後も頼継は信濃の周辺勢力と抗争を継続。没年は不明ながら、大祝と惣領を子孫に伝えて世を去ったようです。
諏訪頼継の生涯は、惣領として一族を守り、誇りを持って戦い抜いたものでした。
命をかけて足利尊氏に争った生き様は、諏訪氏の歴史とあり方に強い影響を与え、漫画『逃げ上手の若君』でも描かれています。
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※参考文献・サイト
- 『諏訪史料叢書 27』https://dl.ndl.go.jp/pid/1185905/1/7
- 『諏訪史料叢書 28』https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185913/9
- 小林計一郎 「信濃守護考」(所収:『信濃中世史考』 吉川弘文館 1982年)
- 『長野県史 通史編 第3巻 中世2』 長野県史刊行会 1987年
- 阪田雄一「足利直義・直冬偏諱考」(所収:國學院大学地方史研究会『史翰』21号1994年)


