『逃げ上手の若君』時行のライバルで共闘者?足利尊氏との戦いに全てを捧げた諏訪頼継の生涯【後編】:2ページ目
観応の擾乱勃発!頼継、信濃国守護所へ攻め入る
中央政権での争いは、頼継の近隣諸国との関わりにも影響していきます。
正平4年/貞和5(1349)年、直頼こと頼継は直義派の一員として師直派の信濃守護・小笠原政長と衝突しました。
翌正平5年/貞和6(1350)年10月26日、足利直義は京を脱出。その後、敵対していた南朝に降るという行動に出ました。
京を脱出した直義には、信濃の武士・知久四郎左衛門尉が同行。自然、信濃国内の直義派の頼継との連絡・提携が行われていたことは想像できます。これが世にいう観応の擾乱の始まりでした。
正平6年/観応2(1351)年1月、高師直の一族である関東管領・高師冬が直義と対立。関東を追われた師冬は甲斐国須沢城に逃げました。
このとき、師冬を包囲して自害に追い込んだのが直頼こと頼継です。
この戦いには、信濃の市河氏も参陣しており、直頼の名前で市河泰房に軍忠状が発行されています。
市河泰房は、当時の市河氏の惣領・市河頼房(助房の子)の甥で、代理として出陣していました。
同年、市河氏は船山郷の小笠原政長の守護館放火にも参加。加えて守護代・小笠原兼経の守る筑摩軍放光寺攻めにも関わっています。
かつて小笠原氏と共闘していた市河氏ですが、代替わりとなると頼継と共闘関係にあったようです。
同年2月、直義は打出浜の戦いで高師直らを撃破。京に進撃して高師直一派の排除に成功します。
2月26日、摂津国において高師直は一族の師泰らとともに直義派によって殺害。以降、直義が京における政治の中心的立場を確立します。
しかしこれは兄の尊氏とその子・義詮との関係を悪化させるものでした。
7月30日、直義は再び京を脱出。11月25日に上杉憲顕のいる鎌倉に入って尊氏との決戦に備えました。
頼継は直義派の一員として、北条時行らとともに次の戦いを見据えていたのです。
