『逃げ上手の若君』時行のライバルで共闘者?足利尊氏との戦いに全てを捧げた諏訪頼継の生涯【後編】:3ページ目
共闘者退場…孤軍奮闘する修羅の道へ
足利尊氏らの政治巧者ぶりは、頼継や直義を追い詰めることとなります。
尊氏と義詮は南朝に降伏した形をとって、逆に南朝から直義追討令を発出させることに成功しました。
正平6年/観応2(1351)年12月、尊氏は薩埵峠の戦いで直義軍を撃破。直義を降伏させて鎌倉を支配下におきました。
翌正平7年/文和元(1352)年2月26日、足利直義は鎌倉で急逝。同日は高師直の命日であり、そのタイミングから、尊氏による直義毒殺も唱えられています。
これにより直義派は大きく勢いを喪失しましたが、頼継は反尊氏の立場を変えませんでした。
頼継は南朝の征夷大将軍・宗良親王(後醍醐天皇の皇子)を擁して信濃国内を転戦。信濃と上野国の国境である碓氷峠まで進軍しています。
頼継のもとには、仁科・高梨・滋野といった信濃の武士たちが参集。中先代の乱のときと変わらぬ勢いでした。
南朝軍は新田義貞の子らである義興と義宗軍が上野国中の尊氏方を撃破。武蔵国に進軍しています。
やがて新田軍には北条時行も合流しており、南朝軍は閏2月23日に鎌倉を制圧しています。
しかし南朝方は小手指原で敗北。その後も方々で敗戦を重ね、鎌倉は再び尊氏の手に落ちました。世にいう武蔵野合戦の結末です。
正平8年/文和2(1353)年5月20日、逃走中の北条時行が尊氏方に捕縛され相模国龍ノ口で斬首。共闘していた友の死について、頼継は何を感じたでしょうか。
直義と時行の相次ぐ死は、頼継をゆっくりと、確かに追い詰めていくのです。
