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『豊臣兄弟!』“愚かな二代目”、丹羽長秀の嫡子・長重はなぜ徳川幕府で大復活できたのか?【後編】

『豊臣兄弟!』“愚かな二代目”、丹羽長秀の嫡子・長重はなぜ徳川幕府で大復活できたのか?【後編】:4ページ目

改易されても終わらない。家康・秀忠に認められ、再び大名へ

関ヶ原の戦いから3年後の1603年(慶長8年)、長重は常陸国古渡に1万石を与えられて大名に復帰します。関ケ原の戦いで西軍に与し改易された武将が、大名に復帰できたケースは非常に稀で、長重のほかに立花宗茂ら数人しかいません。

長重が大名に復帰できた理由は、大きく分けて二つ考えられます。

一つは浅井畷の戦いにおける事情を家康が理解しており、その戦い振りを「丹羽家の戦支度は天晴也」と称していたこと。そして長重改易の命を家康とともに降した徳川秀忠が、長重に好意的であったことが挙げられます。

これはあくまでも筆者の推測になりますが、秀忠は幼いころ大坂城で北政所寧々(浜辺美波)に養育されており、豊臣家重臣の嫡子という立場にあった長重と何らかの関係があったのかもしれません。

そしてもう一つは、父・長秀譲りの卓越した戦略や築城技術が高く評価されたと考えて間違いないでしょう。

この後、長重は大坂の陣に参陣し武功をたて、1617年(元和3年)には秀忠の御伽衆に抜擢されます。その3年後には陸奥国棚倉5万石にそれぞれ加増移封され、1627年(寛永4年)には陸奥白河10万700石に移封されました。

このころになると、各地へ離散していた丹羽家の旧臣達が長重を思い、次々と帰参しています。また長重が築いた棚倉城、白河小峰城はいずれも名城との誉れが高く、この築城技術を幕府が評価したことで、東北への入り口にあたる要衝に長重を配置したとの説もあります。

こうして1637年(寛永14年)3月4日、長重は白河藩の江戸桜田上屋敷でにて67歳の生涯を閉じました。

織田家を支えた丹羽長秀の嫡子として生を受けたものの、家督相続をするや秀吉から120万石の大領を没収

10万石の大名に復帰するも、関ヶ原合戦では前田家と対立して一度は改易されながら、それでも、家康・秀忠の信任を勝ち取り東北の要衝白河で大名に復帰した丹羽長重

どんな境遇にあっても、堅実で実直な人柄を貫き通したことで、波乱万丈の人生を乗り切った生涯であったといっても過言ではないでしょう。

 

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