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『豊臣兄弟!』“愚かな二代目”、丹羽長秀の嫡子・長重はなぜ徳川幕府で大復活できたのか?【後編】

『豊臣兄弟!』“愚かな二代目”、丹羽長秀の嫡子・長重はなぜ徳川幕府で大復活できたのか?【後編】:2ページ目

家康と利長の対立に巻き込まれるも浅井畷で意地を見せる

10万石を越える大名に復帰した長重でしたが、この後、改易処分、つまりお家取り潰しという憂き目にあうできごとが起こります。

1598年(慶長3年)、秀吉がその波乱の生涯を閉じると、翌年には豊臣家を支えていた前田利家(大東駿介)が没します。すると前田家を継いだ嫡男・利長は大阪城を発ち、領国の加賀金沢に帰国してしまうのです。

この直後、大坂では大きな緊張感に包まれるできごとが勃発します。利長に代わりに大坂城に入った徳川家康(松下洸平)を、浅野長政(大地伸永)大野冶長らが襲うとの密告がもたらされたのです。

当時家康は、豊臣家の五大老筆頭と言う立場にありました。その家康を暗殺するというのは、主君である豊臣秀頼への反逆にあたります。そして家康は、その黒幕が利長だと疑いました。これが世にいう前田騒動です。

長重の所領小松は、前田家の本拠加賀金沢の隣に位置します。そのため家康は長重と誼を通じ、前田家の監視を依頼していたのです。

そして家康は、ついに前田攻めを決意。長重は、その先陣を家康に申し出て認められました。しかし一触即発とも思われたこの緊張関係はおおよそ半年ほどで収束します。利長が母・松の方(芳春院)を江戸に人質として送ることで徳川に屈服したのです。

家康は次の目標を同じ五大老で、会津に帰国している上杉景勝に定めます。そして上洛命令を拒否する景勝に家康は、「秀頼公へ謀反の動きあり」として討伐軍を起こしました。こうして関ケ原の戦いの前哨戦が起きたのです。

この上杉征伐にあたり家康は、前田家に北陸諸将を率いて参戦するよう命じます。利長はこれを受けて長重にも参陣を呼びかけました。

しかし、長重は反発します。前田家の監視と先鋒を命じたにもかかわらず、手のひらを返したように利長の配下になれと言うのはあまりにも理不尽だと考えたのです。

長重の動員兵力はせいぜい4千人。前田家はその気になれば3万の兵を動員できます。約10倍もの兵力差がありながら、半年以上も臨戦態勢を敷き、家臣たちには決死の覚悟を強要してきました。

それを反故にすることは、武家としての面目が絶たない。家康が利長を味方にしようが、自分の敵は前田家に他ならない、長重はそう決断したのです。

そして1600年(慶長5年)9月、家康が会津討伐に出陣した隙をつき、石田三成(松本怜生)ら西軍が挙兵します。長重は三成、家康のどちらにもつくと明言せずに、3千の兵とともに小松城に籠城しました。

これに対し利長は、2万5千の兵で小松城を包囲。しかし難攻不落とうたわれた同城を落すことに手を焼くうちに、大谷吉継率いる数万の軍勢が手薄になった金沢を襲うという流言が流れます。

この事態に利長は一部の軍勢を小松城包囲に残し、主力を金沢に帰しました。

3ページ目 前田軍を散々に打ち破った長重の秘策「浅井畷の戦い」

 

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