『豊臣兄弟!』“愚かな二代目”、丹羽長秀の嫡子・長重はなぜ徳川幕府で大復活できたのか?【後編】:3ページ目
長重はこの機を見逃さず、小松城東の浅井畷の湿地帯に伏兵を配し、撤退する前田軍をさんざんに打ち破ります。これが浅井畷の戦いで、長重は父・長秀から受け継いだ軍略の才を見事に開花させたのです。
長重はこの勝利をきっかけに家康への帰順を図りますが、それには前田家との和睦が必要でした。そして利長から弟の猿千代(後の前田利常)を人質として得るのです。
猿千代は利長と同じ利家の子でありながら、母の身分が低いため、庶子として扱われていました。その境遇に同情した長重は、自ら梨を剥いて猿千代にすすめたといわれます。
この後、利長の養子となり加賀藩二代藩主となった利常は、晩年まで梨を食べる度にこの話をしたとの逸話が残っています。長重の人柄が偲ばれる話ではないでしょうか。
このように関ケ原合戦における北陸の戦いは、長重の意地もあり複雑な様相を呈しました。ただ、前田家にしてみれば、100万石の大大名としての面目を潰された格好でした。
結局、関ケ原の戦いは東軍率いる家康の勝利に終わります。前田家は関ヶ原の決戦には間に合わず、その原因をつくった長重は改易処分となり、江戸蟄居を命じられたのです。
4ページ目 改易されても終わらない。家康・秀忠に認められ、再び大名へ
