日本人は「なぜ」「いつから」漢字を使うようになった?東アジアの動乱と日本の文字文化のルーツ:2ページ目
外交と漢字
楽浪郡が313年に滅びたあと、朝鮮半島では国家形成が進みました。百済と新羅が史料に登場するのも、この時期からです。
一方、中国では、ご存じの通り漢の滅亡後に魏・蜀・呉が争い、その後は司馬炎が建てた晋も勢力を失いました。さらに北方の遊牧民が南へ移動し、五胡十六国と呼ばれる諸勢力が中国北部を支配するようになります。
こうして中国は南北朝時代へ入りました。北では鮮卑の拓跋部が建てた北魏が、南では漢民族の宋が勢力を持っていたのです。
この時代、朝鮮半島の高句麗・百済・新羅は、中国との外交を積極的に行いました。北魏にも南朝の宋にも朝貢使を送り、外交上の礼を示すことで侵略を避けようとしたのです。
ここで重要になるのが漢字でした。中国と外交を行う以上、相手に意思を伝えるための文字や知識が必要だったからです。
倭もこの外交関係とは無縁ではありませんでした。南朝の宋には5人の倭王、いわゆる「倭の五王」が朝貢した記録があり、その内容は歴史書の『宋書』に残されています。
その5人のうちの一人が倭王武です。武が南朝の皇帝へ送った上奏文は、完成度の高い漢文で書かれていました。
この事実から、当時の倭に既に漢字を使える人が存在していたことは分かります。
ただし、これだけですぐに、古代日本人が高度な漢文を自由に書けたと考えることはできません。
かつてはこの上奏文を根拠に、古代日本人が早くから優れた漢文能力を持っていたとする見方もありました。しかし現在では、楽浪郡に由来する中国人が代筆したとする説が有力です。
