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【豊臣兄弟!】秀吉は本当に「女狂い」だったのか? 天下人を彩った11人の側室たちを時系列で一挙紹介

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天下統一がもたらした「甲斐姫」「月桂院」「香の前」

秀吉の側室の中でも、特異な存在といえるのが「甲斐姫」です。歴史小説『のぼうの城』に登場する彼女は、忍城城主・成田氏長の長女で小田原征伐の折り、一族郎党と忍城を守り抜いた武勇の姫君として知られます。

北条氏滅亡にともない開城した忍城を退去した甲斐姫は、氏長とともに蒲生氏郷の配下として会津に移ります。

陸奥国中部で発生した葛西大崎一揆では劣勢の中、得意の薙刀で敵将二人のうち一人を討ち取り、一人を捕縛したとも伝えられています。その武勇伝を聞いた秀吉が、甲斐姫を側室として召し出したのです。

ただ、大坂城での甲斐姫の生活ぶりを伝える史料が少ないために、実在性を疑う説もあります。しかし、近年になり彼女が醍醐の花見に列席した際に詠んだと考えられる和歌の短冊が発見されたこともあって、注目を集めるようになりました。

足利頼純の次女として生まれた「月桂院」は名を嶋といい、1588年(天正16年)、喜連川城主・塩谷惟久の正室となります。その2年後、奥州仕置で宇都宮城に入った秀吉に対し、惟久は妻を居城に置いたまま退去、逃亡しました。

嶋は実家足利家の救済を嘆願するため、宇都宮に出向いて秀吉と面会し、そのまま秀吉の側室になったといわれます。彼女の実家は、足利家の末流であり、また嫁ぎ先の塩谷家も源義家の血脈を引く名家でした。つまり月桂院は、秀吉側室の中で最も格式の高い家柄の出身であったわけです。

秀吉の死後、彼女は京都の東寺で出家。その後、家康にも召し出され、88歳の長寿を全うし江戸で死去しました。

「香の前」は名を種といい、その美貌を見初めた秀吉の側室となります。後に伊達政宗に下賜され、1598年(慶長3年)から政宗との間に男女合わせて二人の子をもうけました。

その後は政宗から重臣・茂庭綱元に下賜され、その側室となります。その際、政宗との子は実子として扱われています。男子は後に高清水城主・亘理宗根(わたりむねもと)となり、香の前はその庇護のもと余生を送り、1641年(寛永17年)、64歳で没しました。

織田信長の娘「三の丸殿」は、伏見城三の丸に住居を与えられていたことから、秀吉の側室となったのは伏見城築城時期である文禄年間(1592年から1596年)と考えられています。

織田家と縁のある娘を側室としたのは秀吉としては、織田信包の娘・姫路殿市の娘・淀殿に続いて三人目。側室の序列としては、最も高い待遇を受けていたと考えられています。そのことからも、信長に対しての秀吉の気遣いが感じられるのではないでしょうか。

三の丸殿は秀吉没後は、摂関家の二条昭実と再婚、1603年(慶長8年)に死去しました。

6ページ目 朝鮮出兵の頃に迎えた広沢局

 

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