【豊臣兄弟!】秀吉は本当に「女狂い」だったのか? 天下人を彩った11人の側室たちを時系列で一挙紹介:3ページ目
本能寺の変前後に側室とした「姫路殿」と「京極竜子」
秀吉は主家である織田家から、確認できるだけでも二人の女性を側室にしています。その一人が信長の弟である織田信包の娘「姫路殿」で、秀吉は彼女を深く寵愛したといわれます。
1577年(天正5年)の播磨侵攻の頃に、秀吉の側室として信包が差し出したとか。しかしながら信長が存命中に、織田家一門衆の娘を養女ならまだしも側室として囲うのは身分的にも無理があり、本能寺の変後に側室とし、当時秀吉が長浜とともに拠点とした姫路城に置いていたのではないかと推測されます。
戦国時代きっての美女とされる「京極竜子」は、若狭守護の武田元明に嫁ぎ、二男一女をもうけていました。彼女の父は京極高吉、母は浅井久政の娘で、浅井長政は叔父にあたります。
本能寺の変が起きると、元明は明智光秀に味方したため山崎の合戦後、秀吉に自害を命じられてしまいます。そして、捕らえられた竜子は秀吉の側室となったのです。
竜子はその出自の高さと美貌で、秀吉から深い寵愛を受けます。秀吉は小田原征伐はもとより、朝鮮出兵の際にも名護屋城へ竜子を伴いました。
秀吉の死後は、兄の京極高次の住む大津城に身を寄せるも、豊臣家が滅亡した大坂夏の陣の後は、六条河原で処刑された秀頼の嫡男・国松の遺体を引き取り、京都の誓願寺に埋葬したことでも知られます。1634年(寛永11年)9月に、京都西洞院の邸で死去しました。
