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【豊臣兄弟!】秀吉は本当に「女狂い」だったのか? 天下人を彩った11人の側室たちを時系列で一挙紹介

【豊臣兄弟!】秀吉は本当に「女狂い」だったのか? 天下人を彩った11人の側室たちを時系列で一挙紹介:2ページ目

秀吉最初の側室「南殿」と播磨攻略戦での「南の局」

秀吉が初めて城持ち大名となったときの長浜城時代に抱えた側室とされるのが「南殿」です。長浜沖に浮かぶ竹生島にある宝厳寺(ほうごんじ)の竹生島文書にその名が見えますが、彼女の素性はよくわかっていません

ただ南殿は淀殿(井上和)を除くと数少ない秀吉の子を産んだ女性とされます。それが秀吉の第一子となる石松丸(秀勝)ともう一人の女児で、二人とも幼くして亡くなっています。

正室の寧々(浜辺美波)が織田信長に秀吉の不貞を訴えたことはよく知られており、相手はこの南殿と思われます。いずれにせよ彼女は薄幸の女性だったようで二人の子を亡くした後、宝厳寺で出家し、1634年(寛永11年)に死去しました。

1580年(天正8年)5月、頑強に抵抗する鳥取城攻めの一環として攻略した鹿野城(しかのじょう)にいた鳥取城主山名豊国の娘あかねが「南の局」です。鹿野城を陥落させた秀吉は「南の局」を磔にして、豊国に鳥取城を明け渡すことを迫ります。

この事態に及び、ついに豊国が開城すると秀吉はあかねを助命し、自らの側室としました。

この後間もなく側室となる「姫路殿」同様に、長浜から遠く離れた播磨において、寧々の目が届かないのをいいことに、秀吉は二人の側室を囲っていたのです。

3ページ目 本能寺の変前後に側室とした「姫路殿」と「京極竜子」

 

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