【豊臣兄弟!】秀吉は本当に「女狂い」だったのか? 天下人を彩った11人の側室たちを時系列で一挙紹介:4ページ目
関白の権威を彩った「摩阿姫」と「淀殿」
若い頃から秀吉と親しく、天下人となってからは最も信頼された存在であった前田利家(大東駿介)の三女が加賀殿とも称された「摩阿姫」です。彼女が秀吉の側室となったのは、1586年(天正14年)頃と考えられています。
1594年(文禄3年)、秀吉は完成した伏見城へ居を移します。同城は関白職を甥の秀次に譲った秀吉が、隠居城として2年前から築いていた城でした。
しかし、1593年(文禄2年)、淀殿との間に秀頼が誕生したことで、京都聚楽第の秀次と伏見城の秀吉という二重権力ともいえる状況が生まれ、諸大名たちは聚楽第同様に伏見城の城下にも大名屋敷を構えるようになりました。
利家が伏見城下に屋敷を構えると、摩阿姫はそこに預けられます。父の屋敷に住むことを許された側室は彼女しかいないため、そこには秀吉と利家の主従関係を越えた特別な間柄が推察されるのです。
また「摩阿姫」は秀吉の存命中に側室を辞し、公卿の万里小路充房の側室となって男子を産んでいます。のちに充房とは離縁し、金沢に戻ると1605年(慶長10年)10月に同地で死去しました。
そして側室でありながら、寧々と並ぶ正室待遇であったのが茶々の名で知られる「淀殿」です。浅井長政(中島歩)と信長の妹・市(宮﨑あおい)の長女として生まれるも、長政の滅亡、市の再婚先の柴田勝家の滅亡という悲劇を経て、1586年(天正14年)10月頃に秀吉の側室となりました。
この時期は「摩阿姫」と同じで、賤ケ岳の戦い、小牧・長久手の戦いにより、秀吉が信長の後継者としての地位を固めたことと関係があるようです。
摩阿姫は古くからの盟友の娘であり、そして淀殿は旧主・信長の血を引く姪でした。もちろんそのあたりは秀吉も重々承知していたのでしょう、淀殿のために城(淀城)を築き、住まわせています。
そして淀殿は、1589年(天正17年)に同城で鶴松を出産しました。しかし鶴松はわずか3歳で夭折してしまいます。それでも淀殿は1592年(天正20年)に第二子・秀頼を出産します。
秀吉没後は、秀頼・淀殿と家康の対立構図となり、関ケ原の戦いを経て大坂の陣が勃発し、1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で大坂城は落城。淀殿と秀頼は自害し、ここに豊臣家は滅亡しました。
5ページ目 天下統一がもたらした「甲斐姫」「月桂院」「香の前」
