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『豊臣兄弟!』に登場し一瞬で切腹!部下の命と引き換えに散った名将・清水宗治の“辞世の句”とその最期

『豊臣兄弟!』に登場し一瞬で切腹!部下の命と引き換えに散った名将・清水宗治の“辞世の句”とその最期:2ページ目

将兵の助命と引き換えに切腹

和睦交渉において、毛利氏ははじめ、このような条件を提示します。

一、備中・備後・美作(岡山県北東部)・伯耆(鳥取県西部)・出雲(島根県東部)の5ヶ国を割譲する。

一、その代わりに宗治の命は助けてほしい。

つまり宗治は、毛利氏にとって「5ヶ国と引き換えにしてでも喪いたくない」家臣だったようです。

しかし秀吉はこれを拒否。5ヶ国の割譲は当然として、宗治の切腹だけは譲りませんでした。

秀吉とすれば、宗治を「生かしておくと後々厄介な人物」と見ていたのでしょう。

和睦交渉が平行線をたどっていることを知った宗治は、主君の恩に感じ入りながらも、自分が足手まといにならぬよう憂慮しました。

そして以下の嘆願書を安国寺恵瓊に送っています。

一、自分・清水宗知・難波宗忠・末近信賀(すえちか のぶちか)の4名が切腹する。

一、その代わりに城兵の命は助けてほしい。

交渉が難航する中、天正10年(1582年)6月2日に京都・本能寺で織田信長(小栗旬)が横死を遂げました。後世に伝わる「本能寺の変」です。

信長の悲報を逸早く知った秀吉は和睦条件を緩和し、3ヶ国の割譲と宗治らの切腹でよいと妥協しました。

かくして6月4日、宗治らは水上に舟を漕ぎ出し、切腹して果てます。享年46歳。

3ページ目 宗治が切腹に臨んで詠んだ辞世

 

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