『豊臣兄弟!』織田信澄は“過去からの刺客”!本能寺の変へ導く、業の深い兄弟の絆と信長・光秀の悲劇:4ページ目
記録には見られない信澄と光秀の謀反説
信澄黒幕説は、本当にあったのでしょうか。
『家忠日記』(徳川家家臣・松平家忠の日記)という史料には
「酉刻、京都にて上様ニ明知日向守・小田七兵衛別心にて、御生かい候よし」
とあり、「明知日向守」(明智光秀)と「小田七兵衛」(織田信澄)が信長に謀反を起こした」ことが記されています。
しかしながら、同書6月4日条では「七兵衛殿別心ハせつ也」と、信澄の「別心」(裏切り)は誤報であると記されており、本能寺の変には関与していない事が家康側へ伝えられています。
けれども、信澄は光秀の娘婿という立場からか、翌6月5日に織田信孝・丹羽長秀により襲撃され殺害されてしまったことが分かります。
また『多聞院日記』(奈良・興福寺で僧の英俊を始め三代の筆者に書き継がれた日記)では、
「信長と嫡男・信忠が自害。明智光秀と織田信澄が示し合わせて討ったという事件が伝わってきた。(中略)詳しい状況はまだわからないがどうなっていくのか。ひとまず見守るほかない。」
という内容が記されています。
つまり、光秀と信澄が組んで謀反を起こしたという決定的な証拠はいまだにないようです。
