『豊臣兄弟!』本能寺の変は「怨恨」だけではない!光秀を謀反へ走らせた家康共謀説・四国説・武田内通説:3ページ目
武田氏との密約はあったのか?「武田内通説」の真相
「本能寺の変」の約10日後の1582年(天正10年)6月13日、大山崎において光秀と秀吉が激突する山崎の戦いが起きます。
結果は周知のとおり、明智軍の惨敗に終わり光秀は居城坂本に退く途中で、落ち武者狩りにあい自害して果てました。この戦いの後、明智軍の残党が細川家を頼っています。その一人に、利三の三男・斎藤利宗(としむね)がいました。
そもそも光秀と細川氏の縁は深く、光秀が流浪の境遇であったとき、室町幕臣だった細川藤孝(幽斎)に仕えていたという記録があります。光秀が信長に出仕すると藤孝も信長に仕え、光秀の娘・ガラシャが藤孝の嫡子・忠興に嫁ぎ、両家は縁戚関係で結ばれていたのです。
史学博士の磯田道史氏は、肥後熊本藩主の細川家史である『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』には、利宗から聞き出した光秀謀反の理由が記されていると指摘します。
その内容は、「武田の一族である穴山梅雪が信長に降参した。その穴山の口から光秀の武田への内通が露見するのを恐れ、取り急ぎ謀反心を起こした」というものです。
これによれば、武田信玄存命中からであったのか、あるいは勝頼の代になってからなのか定かではないものの、光秀はかねてから武田氏と内通していたことになります。
ではなぜ、光秀が武田氏と誼を通じるようになったのでしょうか。それについて筆者は、信玄に招かれて恵林寺の住持を務めていた名僧・快川紹喜(かいせんじょうき)との関係を考えます。
光秀の出自には多くの謎がありますが、美濃明智氏の出であり、斎藤道三に仕えていたという説が有力です。紹喜はそもそも美濃崇福寺の住持で斎藤氏の外交僧としての顔も持っていました。しかし、義龍との間に起きた宗教上の対立(永禄別伝の乱)により、一時期美濃を離れ、そのころから信玄と親しくなります。
ただ龍興の代になると、斜陽の斎藤氏を支えるために武田氏との同盟を締結するなど、美濃と甲斐の間を奔走しました。つまり斎藤氏と関係の深かった紹喜をつうじて武田氏に接近し、その外交役であった穴山梅雪となんらかの情報交換を行っていた可能性も考えられるのです。
もっとも梅雪は武田勝頼を裏切り、主家の滅亡に大きな影響を与えた人物です。仮に光秀の武田氏との接触が、梅雪をはじめとする武田氏重臣の調略であるなら、光秀にとって梅雪は味方となる存在であったはずでした。
しかし光秀は、その梅雪の口から武田内通が漏れることを恐れます。そこにはただの調略ではない、なにかがあったのかもしれません。
利宗による供述が真実だとすると、「本能寺の変」が起きた背景には、武田氏滅亡の影響があった可能性が高いと考えられるのです。


