『豊臣兄弟!』本能寺の変は「怨恨」だけではない!光秀を謀反へ走らせた家康共謀説・四国説・武田内通説:2ページ目
そこで信長は元親に土佐一国および阿波半国の領有のみを認めるとします。さらにその後、その阿波も元親と敵対関係にあった三好康長に領有を認めるという朱印状を渡し、元親には土佐一国だけを認めるとする屈辱的な命令を突き付けました。
こうなると元親の気持ちは収まりません。もとより元親は四国平定においては、すべて自らの兵力だけで戦ってきたのです。ドラマのなかで元親が光秀に詰め寄って発した「どれだけ長宗我部の血が流れたのか!」という言葉は真実でした。
長宗我部氏を都合よく利用し、必要がなくなると切り捨てるという信長のやり方に、元親が強く反発したのも無理はありません。そして、信長への信頼を失ったとしても不思議ではないでしょう。。
2014年(平成26年)に発見された『長宗我部元親書状』には、このような状況のなかで、光秀と元親と縁戚関係がある利三が苦慮した様子が記されています。信長の要求が道理に合わないと考えながらも、「ここで信長の言うことを認めなければ、ついには土佐一国も危ない」と光秀は元親に懸命に説得を重ねました。
ところがその説得が進展しないと判断した信長は、三男の織田信孝(結木滉星)を総大将に長宗我部征伐を兼ねた四国への出兵を決定します。そして遠征軍が四国に向けて渡海する前日の1582年(天正10年)6月3日、「本能寺の変」は起きました。
元親との折衝を重ねるなかで、光秀の胸中にも信長への不信感が募っていったと考えることは十分可能です。それが「本能寺の変」の背景に、四国政策の転換があったとする「四国説」の根拠となっているのです。
3ページ目 武田氏との密約はあったのか?「武田内通説」の真相
