『豊臣兄弟!』成功しても褒められない…地味で控えめな「裏方」だった豊臣秀長が兄の陰で発揮していた実力:2ページ目
報奨を辞退
天正五年、信長が毛利攻めを決めた際のことです。兄の秀吉は播磨攻略を任され、同時に秀長の献策を受けて但馬の生野銀山を押さえる作戦を進めます。
この但馬攻めの総大将に選ばれたのが秀長で、彼は三千余の軍勢を率いて、朝来と養父の両郡へ攻め入りました。
結果、彼は朝来郡の主城である竹田城を三日ほどで落とし、その後も城を次々と攻略していきます。結果としてわずか二十日ほどで両郡を制圧するという異例の速さで成果を上げました。
この武功はすぐに信長の耳に入り、彼は秀長を安土へ呼び出して直接報償を与えようとします。
しかし秀長は、但馬がまだ不安定であることを理由に辞退しました。これは兄の秀吉への遠慮もあったと考えられます。
戦国時代は、兄弟でも手柄を競い合い、時には争いに発展することも珍しくなかった時代です。例えば織田信長と弟の信行がそうで、そんな中でも弟の秀長が手柄を誇らず兄を立て続けた姿勢は極めて異例でした。
秀長はこの後も三木城の兵糧攻め、丹波と但馬北部の平定、鳥取城の兵糧攻め、高松城の水攻めなど主要戦線で活躍し、侍大将としての評価を確かなものにしていきます。
控えめな、裏方の兵站担当だった秀長。しかし彼はいつしか前線で活躍する武将へと進化し、豊臣軍の中で欠かせない存在となっていったのです。
