死後に“大事件”を起こした男・大久保長安とは?家康に才能を買われた異色の武士の前半生
安土桃山時代から江戸時代初期ごろにかけては、多くの武将・武士たちが活躍しました。今回の記事では、それほど知られているわけではないけれど、波乱万丈な人生を送った大久保長安(おおくぼながやす/ちょうあん)という人物についてご紹介したいと思います。
実は彼、死後に自身の名を冠した事件も起きているんです。
大久保長安とは?
大久保長安は、1545年(天文14年)、猿楽師(猿楽を演じる役者)の家の次男として生まれました。父・大蔵信安は武田信玄に仕えていましたが、長安は父と同じ猿楽師としてではなく、信玄に見出されて家臣として取り立てられました。
武田家の家老であり、「武田二十四将」としても有名な土屋昌続に仕え、このときに姓を父の大蔵から「土屋」に改めています。黒川金山などの鉱山開発や税務、内政、農政などに取り組みました。震源の没後は、息子の武田勝頼に仕えるました。
才能を見抜かれ、徳川家康に仕える
1582年(天正10年)、織田信長と徳川家康によって甲州征伐が行われ、結果として武田家は滅亡。敵対していた相手ではありますが、徳川家康が長安の才能を見抜き、自身に仕えさせることに。このとき、徳川家康の重臣である大久保忠隣の与力となったことをきっかけに、姓を「大久保」に改めています。
多様な内政で力を発揮、特に八王子のまちづくりに貢献
家康に才能を認められた大久保長安は、川の堤防の復旧事業、新田開発、金山採掘などを通じて甲斐国の内政を立て直したほか、家康が関東に移ってからは土地台帳の作成などに尽力しました。
こうした貢献も認められ、長安は1591年(天正19年)に家康から武蔵国八王子の土地を与えられました。八王子は江戸城を守る最重要拠点であり、ここに陣屋を置き、八王子十八人代官の設置、宿場の建設、浅川(あさがわ)の氾濫を防ぐための土手・堤防建築などを行いました。
ちなみに、長安が「石見守(いわみのかみ)」と名乗っていたことから、この堤防は「石見土手」と呼ばれています。
後編では、長安の大きな功績のひとつである鉱山開発、および彼の人物像に迫っていきたいと思います。
