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【豊臣兄弟!】死んでも渡さぬ!史料でも松永久秀が最期まで手放さなかったとされる「平蜘蛛茶釜」の正体

【豊臣兄弟!】死んでも渡さぬ!史料でも松永久秀が最期まで手放さなかったとされる「平蜘蛛茶釜」の正体:2ページ目

久秀の壮絶な最期

そんな平蜘蛛茶釜を、久秀がどういう経緯で入手したのか、詳しいことはわかっていません。

ともあれ信長は久秀が臣従すると、ひたすら平蜘蛛茶釜を所望し続け、久秀はひたすら拒否し続けたのでした。

臣従する時に名物の九十九髪茄子(つくもかみなす)を献上したというのに、まったく信長も強欲なものです。

一度目の謀叛が元亀4年(1573年。天正元年)、そして天正5年(1577年)に二度目の謀叛を起こしました。

問答無用で叩き潰せばいいのでしょうが、信長は「平蜘蛛茶釜に何かあったらどうするんだ」とばかり、まずは久秀の説得を試みます。

家臣の松井友閑(まつい ゆうかん)を派遣して、一体何が不満なのか聞こうとし、平蜘蛛茶釜を差し出せば赦してやるなどと言い出しました。

しかし久秀は「今度という今度は、断じて降伏などするものか」とばかり、友閑に会おうともしません。

説得に失敗した信長は、嫡男の織田信忠(小関裕太)に10万の兵を与えて信貴山城を包囲させます。

そして再度、佐久間信盛(菅原大吉)から平蜘蛛茶釜を差し出すよう伝えましたが、久秀の決意は寸毫たりとも揺らぎません。

先ほど紹介した通り、久秀は平蜘蛛茶釜を粉々に砕き割って城に火をかけ、自刃して果てたのでした。

時は天正5年(1577年)10月10日。永禄10年(1567年)に東大寺大仏殿を焼き払ってからちょうど10年であったため、人々は春日明神の神罰だろうと噂したそうです。

久秀の首級は信長の元へ送られ、胴体は達磨寺(奈良県王寺町)に葬られました。

3ページ目 平蜘蛛茶釜は本物だった?

 

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