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『豊臣兄弟!』初登場した信長の息子たちに待つ過酷な運命…史実で見る織田信忠・信孝の早すぎた最期

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政争に敗れた織田信孝――兄の命で切腹した悲劇

信孝は、信長の三男で永禄元年(1558)生まれ。次男・信雄より出生は20日ほど早かったものの母・坂氏が側室だったため、信孝が三男とされたという説があります。

永禄11年(1568)、信長が北伊勢を攻撃して神戸城の神戸具盛を降伏した時、具盛に子がいなかったため、信孝は具盛の養子になり神戸信孝と名乗ることに。この後、神戸家を相続し神戸領は織田領とになりました。

信孝は、天正2年(1574)の伊勢長島一向一揆との戦い、翌年の越前一向一揆との戦い、雑賀攻めなど、信長の主要な戦いに出陣しています。

▪️秀吉に対して反感を募らせる

天正10年(1582)本能寺の変の時には、信孝は四国攻めのため重臣の丹羽長秀とともに大坂にいました。「四国平定後に讃岐国を与える」と信長は約束していたのですが、本能寺の変で信長が死んだことで潰えてしまいます

戦後の清須会議で、信孝は織田家の後継者に指名されず、主導権を握った秀吉への反感を募らせていきます。同様に秀吉に反感を持つ柴田勝家や滝川一益と手を組むようになり勝家との絆を深めるため、お市の再嫁を斡旋した……という説も。

清州会議で「三法師」(織田 秀信の幼名。織田信忠の息子)は安土城に移ることが決定したものの、信孝は三法師を岐阜城から離しませんでした。これを謀反の口実として、12月2日、秀吉と信雄は三法師奪還を名目に挙兵。丹羽長秀、池田恒興ら諸将の多くも秀吉を支持して加勢しました。

その後、信孝は岐阜城に立てこり秀吉に抵抗するも、城を包囲されて降伏します。三法師を取り上げられ、一時的に秀吉に従った信孝。けれども、天正11年(1583)に秀吉と勝家による賤ヶ岳の戦いが起きると挙兵しました。

しかしながら、勝家は秀吉に敗れ越前北庄で自害します。信孝は戦意を喪失し、兄・信雄の説得で岐阜城を開城することになったのです。

その後信孝は知多半島に移り、天正11年(1583)安養院(愛知県美浜町)で切腹。26歳のことでした。

5ページ目 信孝には壮絶な切腹の逸話が……

 

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