『豊臣兄弟!』初登場した信長の息子たちに待つ過酷な運命…史実で見る織田信忠・信孝の早すぎた最期:3ページ目
嫡男として期待された織田信忠
信忠は信長の嫡男であり、将来の後継者として大きな期待を寄せられていた人物です。
弘治3年(1557)に尾張国清州城で生まれました。『寛政重修諸家譜』では生駒吉乃が実母とされてきましたが、近年ではほかの説も登場しています。
▪️幼名『奇妙丸』のなぞ
信忠といえば、幼少期の『奇妙丸』という風変わりな名前を付けられたエピソードも知られています。「生まれたときに奇妙な顔をしていたので信長がそう名付けた」という説が一般的です。
けれども、当時「奇妙」という言葉には「ほかよりも優れている」という意味があるという説、当時の風習で「魔除け」のために変な名前を付けたという説もあります。確かに、昔の信忠の肖像画を見ても、シュッとした面差しで「奇妙な顔説」はちょっと疑問に感じてしまいます。
いずれにしても、信忠は「家督継承者」として非常に大切にされて育ち、信長にしたがって各地を転戦、天正3年(1575)に家督を譲られました。
▪️美濃・尾張の2ヵ国を支配
信長が安土城に移ってからは信忠は岐阜城主となり、美濃・尾張の2ヵ国を支配。以後の信忠は、総大将として出陣する機会は増えていきました。
天正10年(1582)3月、信忠は甲斐武田氏の征伐に成功しますが、その栄光は長くは続きませんでした。
同年6月、信忠は信長と共に備中高松城を包囲する羽柴秀吉の援軍に向かうべく、京都の妙覚寺に滞在。この時に『本能寺の変』が発生しました。信忠は、すぐに救援に向かうも、信長自害の知らせを受け明智光秀を討つべく二条新御所に移動します。
懸命に応戦するも敵兵の数の多さに勝ち目なしと断念し、自害しました。まだ25〜26歳という若さでした。
▪️後継者に相応しい能力と資質
二条新御所での戦いの時、下方弥三郎という若者が瀕死の重傷を負ったとき、信忠がその姿を見て「勇鋭と言うべし。今生で恩賞を与える事はかなわぬが、願わくば来世において授けようぞ」と言い渡し、感激した弥三郎は笑いながら敵中に突っ込んでいき討死したという逸話があります。
以前は、徳川家康の長男・松平信康と比較され「暗愚で平凡な将」のイメージがありましたが、近年では事績が見直され「後継者に相応しい能力と資質の持ち主」という説が主流になっているそうです。
