『豊臣兄弟!』史実で万丸と宮部継潤の関係は?比叡山焼討ちに対する実際の評価ほか第16話を考察:4ページ目
鬼畜の所業?比叡山焼討ちに対する評価
信長の残虐非道ぶりを語る上で外せない比叡山焼討ち。時は元亀2年(1571年)9月12日のことでした。
その前に浅井・朝倉連合軍が比叡山延暦寺に立て籠もった志賀の陣(元亀元・1570年9月16日~12月14日)があり、正親町天皇(おおぎまちてんのう。第106代)の朝廷により和睦が成立したのは劇中の通りです
比叡山に手こずっている間に南近江の六角義賢(ろっかく よしかた)や摂津・河内の三好三人衆(まだしぶとく抵抗中)、そして石山本願寺の指令を受けた一向一揆が各地で信長を脅かしていました。
劇中では信長が「この和睦に助けられたのは、我らか?それとも浅井・朝倉か?」と逆上。義昭の陰謀を疑っていましたが、信長だってそこまで有利ではなかったはずです。
さぁいよいよ信長が本気で攻めて来る……事態の重大さを認識した延暦寺は信長に対して黄金500両を贈り、攻撃を中止するよう嘆願しました。
しかし信長はこれを拒絶し、僧侶たちはもちろんのこと、女子供に至るまで片っ端から虐殺したと言われます。
比叡山焼討ちについて当時の公卿たちは非難し、また甲斐の武田信玄(高嶋政伸)は仏敵信長を討伐する大義名分として信長を糾弾しました。
いっぽう当時の比叡山が仏法を忘れ、私利私欲に堕落しきっていた様子を非難する論調も見られます。ただこれは『多聞院日記』など同じ仏教徒でも異宗派(比叡山は天台宗、多聞院は法相宗)によるもので、やはり一般的な感情としては「仏様に対して畏れ多いこと」だと思っていたのではないでしょうか。
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女子供を逃がすことで自分の心を守った(切腹させられかけたものの)秀吉に対して、信長を恐れるあまり任務を忠実に遂行してしまった光秀……純粋な男が闇に蝕まれていく様子が、今後の見どころとなることでしょう。
第17回放送「小谷落城」
さぁいよいよ次週は「小谷落城」。いよいよ浅井長政が滅び去り、お市が織田家に戻って来ます。が、もちろん以前のように打ち解けるはずもなく、更なる悲劇を生み出していくことになるでしょう。
浅井氏の滅亡が天正元年(1573年)9月1日なので、次週は一気に色んなイベントが盛りだくさんになる予定です。
【天正元・1573年】
- 2~4月 二条御所の合戦(ついに信長と義昭が対立)
- 4月 上京の焼討ち(同年、信長による京都の焼討ち)
- 7月 槙島城の合戦(信長が義昭を京都から追放。室町幕府の事実上滅亡)
- 8月 一乗谷の合戦(信長が朝倉義景を滅ぼす)
※信長目線。徳川家康(松下洸平)はこれより前に三方ヶ原の合戦(元亀3・1572年12月)で甲斐の武田信玄(高嶋政伸)に惨敗を喫します。
これらをすべて丁寧に描いたら45分では足りないので、取捨選択が避けられません。今後の展開に注目していきましょう!
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