【豊臣兄弟!】織田信長が足利義昭のために築いた“最初の二条城”とは?天下人の石「藤戸石」の悲劇:2ページ目
見たこともない広大で華麗な宮殿だった旧二条城
信長が作った旧二条城は、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスによると、「日本において見たこともない新しい城で、広大かつ華麗な宮殿だった」「石仏や五輪等などの石造物も徴収してあっという間に建てた」など、驚きを持って書き記していたそうです。どのような建築物や造園だったのか……想像が膨らみます。
けれど、その後、信長と義昭との関係が悪化し義昭は畿内から追放。せっかくの立派な建築物も天主や門は解体され、築城中の安土城に転用されてしまったのでした。
遺構はほとんど残っていませんが、1975年代に行われた、地下鉄烏丸線工事に先立つ発掘調査で石垣が発見されたそうです。
その一部は、京都御苑内と現在の二条城内に復元され、平安女学院の敷地の一角には「旧二條城跡」と彫られた石碑と説明板が立っています。
また、二重(三重とも)の石垣と横堀が巡り、天守らしい高層建造物が立っていたことも判明しているとか。かなり信長が力を注いで作ったことが推測されます。
武将の勝利のために理不尽に殺された漁師にまつわる藤戸石
旧二条城ができあがったとき、信長が義昭に贈り庭に設置したのが『藤戸石』です。
藤戸石は、岡山県藤戸の渡で産出されたと伝わる、室町時代から名石として珍重されているもの。
権力の象徴として、室町時代後期には、実権を握った細川管領邸に置かれ、それを織田信長が奪い、義昭のために造営した二条邸に運ばせたと伝わっています。
この石を運ぶ時には、信長が権力を示すために自ら指揮をとり、石を綾錦の布でつつみ、その上に花をかざり、笛・太鼓・つづみなどで賑やかに音楽を奏で、大綱で引いたそう。さぞかし、華やかなパレードになったのではないでしょうか。
けれども、権力者側からみれば「勝利や権力の証」となるこの藤戸石には、実は何の罪もないのに犠牲になった民の血が流れていたのです。
藤戸石の由来は源平合戦まで遡ります。源頼朝の異母弟の源範頼が、一ノ谷の戦い後に西国に兵を進めたときのこと。
範頼勢は、本土側の備前国西河尻・藤戸に陣を構えましたが、波が高く船もないため500m程の藤戸の海峡を渡れずに困っていました。
そこで佐々木盛綱は、地元の漁夫から馬で渡れる浅瀬ができる時間と場所を聞き出し案内させます。けれども、その情報が漏れることを防ぐため、その漁夫を刺し殺してしまうのでした。
漁夫の犠牲があったおかげで佐々木盛綱らも範頼勢も海路を渡り、平氏軍を追い勝利を掴みます。
藤戸石は「漁夫殺害現場にあった石」と言われ、武家社会では一番乗りを果たした盛綱の栄光の象徴の意味もあって”天下の名石”と評された……という、なんとも残酷な話です。
武将にとっては勝利の象徴かもしれませんが、親切に道案内をした挙句に殺された漁夫にとっては理不尽な悲劇そのもの。
この悲劇を今に伝えているのが能の演目、謡曲『藤戸』です。

