【豊臣兄弟!】織田信長が足利義昭のために築いた“最初の二条城”とは?天下人の石「藤戸石」の悲劇:3ページ目
勝利の陰にある民の犠牲を伝える謡曲『藤戸』
佐々木盛綱は、備前国児島にある藤戸の合戦で馬で海を渡る快挙を成し遂げて先陣の功を上げます。それによって児島を領地に賜るのですが……。
ある日、領地入りした盛綱の前に一人の老婆が現れ「我が子を殺した!」と盛綱を責め立てました。その老婆は、親切に浅瀬の道や時間を教えてくれたのにも関わらず、殺してしまった漁夫の母親でした。
盛綱は敵どころか味方にもこの話が漏れるのを防ぐため、無慈悲にも漁夫を切り捨てたうえに海に沈めてしまったのでした。
盛綱の告白を聞いた老婆は半狂乱になり「息子を返せ、息子を返せ」と迫ります。盛綱は、息子の供養をすることを約束し老婆を返しました。
盛綱が、藤戸の海辺で般若経を読誦して漁夫を弔っていると、その亡霊が海上に姿を現しました。亡霊は、無惨にも殺された恨みを語り伝えに来たといい、刺し通されて海に沈められた惨劇を見せました。
亡霊は悪龍の水神と化して、恨みを晴らそうとしていたのですが、意外にも回向を賜ったことに感謝し、彼岸に至って成仏の身となりました。
という内容です。(ちょっと最後は、権力者にとって都合がいい終わり方になってしまったような)
いつの時代も権力者同士の戦いは、かならず民間人が巻き込まれ犠牲に。『藤戸』は、戦場で華々しく手柄を誇る権力者の陰で理不尽に殺された民がいるという無念や悲哀を今に伝える演目となっています。
※読本系「平家物語」では佐々木盛綱は漁夫を殺してはいないとも

天下人の石「藤戸石」も現在は醍醐寺三宝院に
無辜の血が流れ悲しみの慟哭が込められた「藤戸岩」。
前項で触れたように、佐々木盛綱や源範頼らの勝利の象徴、細川官領邸に置かれ権力の象徴となり、旧二条城の庭に運ばれるも信長と義昭が決裂したため後取り壊しになり、信長が本能寺の変で自死後は、秀吉が聚楽第に運び、さらに慶長3年(1598)には醍醐寺三宝院へと移すも、秀吉は完成を待たずに死去……。
一時工事は中断していたものの、醍醐寺住職の義演准后(ぎえんじゅごう)が秀吉の遺志を継ぎ完成させ現在に至ります。
「天下人の石」と呼ばれるものの、その運命のままに移動し続けた「藤戸岩」のくだりは、「豊臣兄弟!」では描かれるのでしょうか。その後の史実を思うと複雑ですね。
「生きているだけで十分じゃ!」が根底に流れている「豊臣兄弟!」。小一郎の「生き延びてくだされ」の言葉に涙をながした義昭。これからどういう展開になっていくのか見守りたいと思います。
