『豊臣兄弟!』小一郎の“僧侶の変装”や説得は史実?「本圀寺の変」の実際…第11回振り返り・解説:2ページ目
信長はなぜすぐ岐阜へ引き揚げた?
永禄11年(1568年)10月に上洛を果たし、義昭を将軍位に就けた信長は、なぜ早々に京都から岐阜へ引き揚げてしまったのでしょうか。
まだ京都支配が確定していない状態で自身が帰ってしまうリスクについては、十分に理解していたはずです。
それでも岐阜へ引き揚げた理由は諸説ありますが、あまりに早く京都へ到着してしまったため、兵站(兵糧や物資の補給ルートや仕組み)の整備が間に合わなかった可能性が考えられています。
戦国時代の常識であれば「足りないものは現地調達≒略奪すればいい」と思いますが、今回は新たな室町将軍を奉戴している以上、あまり下品なことはできません。
かつて武力任せに京都へ殴り込んだはいいものの、物資が欠乏して略奪に走った結果、支持基盤を確保できず滅亡していった木曽義仲(きその よしなか)が悪しき好例です。
約一ヶ月という短期間では岐阜から京都までの兵站を整備できず、大軍を抱えて兵糧の欠乏を危惧した結果、一度引き返したと考えるのが自然でしょう。
義昭の問い「どっちが値打ちもの」?
信長から「上洛せよ」との書状を受け取り、不敵な笑みを浮かべていた松永久秀。将軍暗殺や東大寺焼討ちといった悪名をものともしない姿は、まさに乱世の梟雄と呼ぶにふさわしい風格でした。
実にいいですね。やっぱり松永久秀はこうでなくちゃいけません。竹中直人がこれからどんな久秀を演じて魅せるのか、とても楽しみにしています。
さて、そんな久秀が信長に献上したのは天下の名物「九十九髪茄子(つくもかみなす)」。言うまでもなく一級品でした。
一方で義昭に献上したのは……何でしょうね。それなりの名物と思われますが、九十九髪茄子には及びません。
義昭の権威は、信長の権力あってこそ……そのことを見抜いていたと言うか、誰の目に明らかだったことでしょう。
ともあれ久秀は大和一国の支配権を認められ、それまで筒井順慶(つつい じゅんけい)が優勢であった大和国内の情勢を覆していくのでした。

