次回『豊臣兄弟!』で描かれる「本圀寺の変」とは?三好三人衆の逆襲…足利義昭はどうなるのか:2ページ目
義昭危うし!
『足利季世記』によると、三好三人衆の率いる兵数は一万余人、その中にはかつて国を追われた者たちも加わっていました。
美濃の斎藤竜興(濱田龍臣)、信濃の小笠原貞慶(おがさわら さだよし)、摂津の入江元秀(いりえ もとひで)など。『信長公記』によると、先陣を薬師寺貞春(やくしじ さだはる)が務めています。
襲撃を受けた義昭らは明智光秀(要潤)らわずかな近臣たちと本圀寺に立て篭もり、死に物狂いで防戦しました。
『上杉家文書』や『吉川家文書』によると、義昭は自ら馬に騎乗して指揮をとり、敵に斬りかかってことごとく討ち果たしたと言います。
何かと軟弱で陰湿なキャラに設定されがちな義昭ですが、意外と将器を備えていたのかも知れませんね。
そうこうして翌1月6日には三好義継(よしつぐ)や細川藤孝(亀田佳明)、和田惟政(玉置孝匡)や荒木村重(トータス松本)らが援軍に駆けつけ、三好三人衆らを挟み撃ちにします。
激しい戦闘の結果(兵力温存のため戦わずに逃げた説も)、三好三人衆らは敗退。残兵を集めて阿波国へと退却しました。
この戦闘による被害は双方で800余(『細川両家記』)から1,000余(『言継卿記』)、また2,700余(『足利季世記』)や数千(『永禄記』)とも言われています。
カウントの基準や現場の見方によって、数が大きく変わるのは興味深いですね。
信長と久秀が駆けつける
1月10日になると、急報を聞いた信長が大雪の中、わずか十数騎を率いて駆けつけました。
忠義に厚かったのか、それとも「今お前に死なれては困る」という利己的な動機かは分かりません。
また同日に久秀も駆けつけ、義昭の無事を喜んだことでしょう。
信長はただちに三好三人衆の邸宅を破壊し、また彼らに協力した堺の町衆を攻め立てました。
1月12日になると、近江・若狭・丹波・摂津・河内・和泉・山城など各地から諸侍が参集。総勢80,000人にも及んだそうです。
こうなればもう安心。再び取り戻された平穏に、人々はした安堵したことでしょう。

