『豊臣兄弟!』理不尽すぎる粛清…15歳の美少女・駒姫、罪なき処刑へ——「秀次事件」の悲劇:2ページ目
誰もが認める才色兼備の美少女・駒姫
駒姫は、出羽国(現在の山形県・秋田県)の武将・最上義光と釈妙英(大崎義直の娘)との間に誕生。子供の頃から才色兼備の姫として有名でした。
「容色嬋娟(せんけん)世にすぐれたるのみにあらず、小野小町がもてあそひし道を学び、優婆塞(うばそく)の宮のすさび給ひし跡をも追んとのみ、琵琶を弾じては傾く月の影を招き、花の下に歌を詠じては、移らふ色をいためたり」
(『奥羽永慶軍記』(※)より)
意訳すると、「容姿はまさに絶世の美少女。それだけではなく小野小町が得意とした和歌の道を学び、源氏物語の「宇治の八の宮」が優雅に過ごしたような雅な遊びも追いかけようとしていました。
琵琶を弾けば、まるで沈む月の影を呼び寄せるように美しい音色を奏で、桜や花の下で歌を詠めば、花の色が散ってゆくのをいっそう切なく感じさせてしまうほどでした。」
……というような意味でしょうか。
才長けてながらも、儚げな感じもする美しい少女の姿が鮮やかに浮かぶようです。けれども、その美しさが仇となり斬首される運命を招いたのでした。
※奥羽永慶軍記:江戸時代に秋田の戸部正直によって記された軍記物語
謀反の罪で秀次切腹に巻き込まれた駒姫
駒姫を悲劇に巻き込んだのが、秀吉の姉ともの長男・秀次。秀吉の甥でした。
秀次は、天正19年(1591)、秀吉天下統一最後の戦い「久戸政実の乱」平定後、帰国途中に最上義光の山形城に立ち寄ります。そのとき、まだ11歳ほどだった駒姫も、琵琶を弾くなどの接待をしたそうです。
そして、秀次が一目惚れし、駒姫を側室に欲しいと求めました。もちろん、父・義光は幼さを理由に断るものの、強く要望され仕方なく「15歳になったら」と約束します。
文禄4年(1595)、15歳になった駒姫は、父と共に山形から京都まで出向き、秀次の屋敷である聚楽第に移ります。ところが、その後、突然夫になるはずだった豊臣秀次が、謀反の罪で切腹するという青天霹靂の出来事が起こるのでした。
秀吉秀次が突然「謀反の罪」に
秀次は秀吉の養子となり、天正19(1591)年12月には関白職に就きます。けれど、そのわずか4年後、文禄4年(1595)7月15日、秀吉は秀次に対し切腹を命じます。
理由には諸説あります。
・淀君が男子を出産、実子(秀頼)ができ秀次の存在が疎ましくなった
・「秀次に謀反の動きあり」という情報が入った
・秀次は「殺生関白」と悪名が立つほど素行が悪かった
しかしながら、現在では、「秀次の謀反説・殺生関白説は後世の創作」「秀吉は切腹をさせるつもりはなかった」「秀次は潔白を証明するため切腹するも、政権を守るため『切腹して当然の謀反を起こした』ことにした」などの考察がされています。
いずれにしても、秀次の切腹に連座して前述の前野長康駒らは切腹、駒姫ほかの妻妾、侍女たちは処刑されることになったのです。

