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『豊臣兄弟!』で竹中半兵衛(菅田将暉)ついに登場!若くして無念の死を遂げた名軍師の生涯

『豊臣兄弟!』で竹中半兵衛(菅田将暉)ついに登場!若くして無念の死を遂げた名軍師の生涯:3ページ目

秀吉の与力として才覚を発揮

斎藤家の滅亡後、半兵衛は北近江の浅井長政(中島歩)の客将として、東浅井郡草野に3,000貫で迎えられました。

しかし水が合わなかったのか約1年で辞して旧領の岩手(岐阜県垂井町)へ戻って再び隠棲生活を送ります。

やがて元亀元年(1570年)に木下藤吉郎秀吉が信長に対して「半兵衛を与力に加えたい」と要請し、それが認められました。

講談などでは秀吉が三度礼儀を尽くす「三顧の礼」で半兵衛を迎え、半兵衛も「信長ではなく、秀吉になら仕えたい」と答えたエピソードが紹介されています。知略を駆使したため今孔明(現代に甦った名軍師・諸葛亮孔明の意)と呼ばれたことも、イメージ作りやエピソード挿入に影響したのでしょう。

しかし先の(秀吉の要請に対して信長が許可した)やりとりから、元は信長の家臣であったのが、秀吉の与力としてつけられたものと考えられます。

かくして半兵衛は牧村利貞(まきむら としさだ)・丸毛兼利(まるも かねとし)と共に秀吉の与力となりました。

当時の信長は浅井長政を攻略するべく北近江に乗り出しており、半兵衛は1年ほど浅井家中の禄を食んでいた人脈と経験を活かして、浅井方に与していた長亭軒城(ちょうていけんじょう。岐阜県関ケ原町)や長比城(たけくらべじょう。滋賀県米原市)の調略に成功します。

また姉川の合戦(元亀元・1570年7月30日)では安藤守就の部隊に属し、後に秀吉の与力として横山城(滋賀県長浜市)の守備に当たりました。この頃に正式な与力となったのでしょう。

4ページ目 若き命を戦陣に散らした最期

 

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