幕末、徳川慶喜が戦意喪失し夜逃げ…は嘘!「鳥羽・伏見の戦い」で撤退した本当の経緯と真意
「逃亡」のイメージ
鳥羽・伏見の戦いは1868年に始まり、圧倒的に優勢であったはずの旧幕府軍が敗退しています。
ナメていた旧幕府軍…幕末の「鳥羽・伏見の戦い」で新政府軍が圧倒的戦力の旧幕府軍に勝利した理由【前編】
旧幕府軍と新政府軍の戦力差は?言わずと知れた鳥羽伏見の戦いは、幕末期の新政府軍と旧幕府軍の戦闘の天王山です。※関連記事:[insert_post id=82905]ところで皆さんは…
この理由について、朝敵認定されることを恐れた徳川慶喜には戦意が無く、逃げ出してしまったことで軍が総崩れになってしまったからだとよく説明されますね。
こうした経緯は小説やテレビで何度も描かれてきました。ですが、こうしたフィクション作品のイメージと、実際の経緯は少し違うようです。
まず、一つ言えることは慶喜は新政府と戦うつもりはなかったということです。
意味が分からないと思うかも知れませんが、事実です。彼が敵認定していたのは薩摩藩のみでした。
薩摩藩は王政復古の大号令を画策し、小御所会議で辞官納地の要求をする形で慶喜を陥れた形になっていたからです。
慶喜は言わば私戦を挑んだわけで、そのことは薩摩討伐を表明し、その罪を明示列挙した弾劾、いわゆる討薩表を出した点によく表れています。
つまり、最初から逃げ腰だったとは考えられないのです。
ところが、旧幕府軍は初日から薩長連合の新式銃に押され、六日目には敗走兵が大坂城へどっと集まってきます。
さらに、津藩や淀藩が寝返るという痛手が重なって味方が減り、敵が増えたことで戦況は一気に不利になりました。
そこで生まれたのが、小説やドラマなどでよく描かれる、慶喜が家臣を振り切って夜半に大坂城を脱出するというシーンです。
ページ: 1 2

