『豊臣兄弟!』の聖地巡礼 ── 豊臣秀吉・秀長、天下統一へ「山崎の合戦」の舞台を訪ねる【後編】:2ページ目
山崎の合戦において光秀本陣が置かれた勝龍寺城
山崎から北東に約2キロメートルの場所に、勝龍寺城があります。この城は、光秀と深い関係を持った細川藤孝の居城でしたが、「山崎の合戦」の際には光秀が本陣を構えた城としても知られています。
決戦に敗れた光秀は、山崎から勝龍寺城へと退却します。しかし秀吉軍はすぐに城攻めを開始しました。光秀は、体勢を立て直すべく、夜中のうちに同城を脱出して坂本城を目指しますが、その途上で落ち武者狩りに遭い、命を落とすことになります。
勝龍寺城の歴史は15世紀中頃まで遡ります。とりわけ戦国時代に入ると、山陽道と京都を結ぶ西国街道の要衝として重視され、近世的な城郭へと整備されました。発掘調査の結果、石垣を用いた城郭であったことや、天守の存在も確認されています。現在は城址公園として整備され、いにしえの姿を偲ぶことができます。
また勝龍寺城は、1578年(天正6年)に藤孝の嫡男・細川忠興と、光秀の娘・ガラシャ(玉子)が婚礼を挙げた場所でもあり、二人はこの城で幸せな新婚生活を送ったと伝えられています。しかし、その4年後に本能寺の変が起こり、ガラシャの悲劇的な人生も始まることになるのです。


