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2026年大河『豊臣兄弟!』で注目の舞台──「本能寺の変」豊臣秀吉・秀長が天下に羽ばたくきっかけに【前編】

2026年大河『豊臣兄弟!』で注目の舞台──「本能寺の変」豊臣秀吉・秀長が天下に羽ばたくきっかけに【前編】

2026年1月4日(土)、NHK大河ドラマは新たな幕を開きます。豊臣秀吉とその弟・秀長の生涯を軸に、彼らを取り巻く人々の波乱と魅力を描く『豊臣兄弟!』がいよいよスタートします。

放送開始に先立ち、物語の舞台となる歴史の息づく地をめぐるプロローグ企画をお届けします。

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安土城に続き本稿では、豊臣兄弟が天下に羽ばたくきっかけとなった本能寺の変を取り上げ、[前編][後編]の2回に分け、その真相に迫ります。[前編]では、本能寺の変の基本概要を紹介しましょう。

未だ究明されない本能寺の変の真実

1582年(天正10年)5月、居城の亀山城へ戻った明智光秀は、深い苦悩に苛まれていました。織田家中きっての英俊とうたわれた光秀は、つい数日前まで安土城で徳川家康の饗応役を務めていたものの、その任を信長から突然解かれてしまったのです。

さらに信長は、速やかに帰国したうえで、毛利家と対峙する羽柴秀吉を扶けるため、中国方面へ出兵せよと命じました。

江戸中期に書かれた『明智軍記』によれば、出陣準備のため亀山城に戻った光秀のもとへ信長の使者が訪れ、「出雲・石見の二国を与える代わりに、丹波と近江志賀郡は召し上げる」という命を伝えたとされています。

しかし、この内容を記す史料は『明智軍記』のみであり、事実かどうかについては確証がありません。

この信長の沙汰は、本能寺の変における光秀怨恨説の一つとしてしばしば挙げられます。だが、『明智軍記』の内容が信用性に欠けるとはいえ、全てを否定する必要はないと思われます。なぜなら戦国時代においては、未平定の敵地の攻略を条件に恩賞を与えることは珍しいことではなかったからです。

また信長は、出雲・石見を平定する前に丹波や近江志賀郡を取り上げるとは述べていません。さらに石見には、当時“世界の銀の3分の1を産出した”とも言われる石見銀山が存在していたことから、両国への国替えは必ずしも左遷とは言い切れないのです。

とはいえ、この件に関する光秀の心境は複雑だったに違いありません。同年3月の武田勝頼を討った甲州征伐の際、信長は数名の配下の大名を伴い、戦闘しながら先行する信忠軍の後を、まるで物見遊山のように進んでいます。その中には光秀も含まれていました。

この時、上諏訪の本陣で信長が諸将の面前で光秀を打ち据えて辱めたとする逸話がありますが、これは史実ではありません。甲州征伐が終わると、一行は徳川家康の接待を受けつつ徳川領を通過して安土へ帰還しますが、この際にも光秀は信長に同行しています。

安土城での家康の饗応は、こうした礼に対する返礼として催されたものであり、その責任者として光秀を任じたことは、やはり信長が光秀に大きな信頼を寄せていた証といえるでしょう。

しかしながら、この頃から信長と光秀の間には何かしらの不協和音が起こっていた可能性は否定できません。おそらくはそれが、本能寺の変の原因となったことに間違いないでしょう。

2ページ目 本能寺の変の原因:新たに唱えられるようになった説

 

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