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2026年大河『豊臣兄弟!』で注目の舞台──「本能寺の変」豊臣秀吉・秀長が天下に羽ばたくきっかけに【前編】

2026年大河『豊臣兄弟!』で注目の舞台──「本能寺の変」豊臣秀吉・秀長が天下に羽ばたくきっかけに【前編】:3ページ目

老の坂・沓掛を超え京都になだれ込んだ明智軍

5月27日、光秀は崇敬していた京都・愛宕神社に参籠しました。ここで、同神社の祭神であり本尊でもある勝軍地蔵菩薩に戦勝祈願を行っています。

これが中国地方での対毛利戦を念頭に置いたものなのか、あるいは信長打倒を秘めた祈願であったのか、その真意は光秀の胸中にのみ秘められていたのです。

6月1日、光秀は1万3千の軍勢を率いて亀山城を出陣し、山陰道を東進しました。途中、かつて足利尊氏が旗揚げをした篠山八幡宮を過ぎ、老の坂峠を越えると、山陰道と山陽道の分岐点である沓掛に至ります。

ここを直進すれば京都方面へ、右に進めば兵庫を経て中国地方に出ます。本来であれば、明智軍は右へ進み羽柴軍と合流するはずでした。

しかし光秀は、軍勢に直進を命じます。翌2日未明、桂川に到着すると、光秀は馬の沓を切り捨てさせ、徒歩の兵には足半の草鞋に履き替えるよう触れを出し、さらに鉄砲の火縄を一尺五寸に切り揃えて着火させるなど、万全の戦闘準備を整えました。

この時、映画やドラマなどで光秀が兵たちに向かい「敵は本能寺にあり!」と号令をかけるシーンが描かれています。しかし、これは江戸時代になって創作されたことで、光秀は本能寺の信長を襲う計画を一部の重臣たちを除き、兵たちには直前まで秘密にしていました。

それを証明する資料が『本城惣右衛門覚書』です。同書は明智軍の先手に属していた本城惣右衛門が、江戸時代になって書いたもので、それによると「信長の命令で徳川家康を討つのだと思っていた」と記しています。ちなみに惣右衛門は、光秀が滅びた後は秀吉の弟秀長に仕えました。

桂川を渡り切ると明智軍1万3千の将兵は、怒涛の如く京都本能寺へなだれ込みました。そして運命の日、1582年(天正10年)6月2日、早朝。寝起きを襲われた信長は、森蘭丸兄弟や毛利新助をはじめとした側近が次々と討たれる中、自ら弓をとり槍を振るって奮戦したものの、ついに力尽きます。そして、紅蓮の炎に包まれた本能寺の奥書院にその姿を消したのでした。

それでは[前編]はここまでとします。[後編]では、光秀が居城亀山城から老の坂・沓掛を経て本能寺へ進軍したルートをレポート風に紹介しましょう。

 

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