この男こそ戦国最強サバイバー!追放と復帰を繰り返し美濃を揺らした武将・土岐頼芸の生涯

湯本泰隆

追放と復帰を繰り返した戦国サバイバーの実像

斎藤道三や織田信長が登場する前、美濃の歴史の中心に位置していた人物がいます。それが土岐頼芸(ときよりのり)です。

何度も地位を失いながら復帰の機会を狙い続けた、しなやかな強さの持ち主でした。戦国の荒波に翻弄されながらも文化的な感性を手放さなかったその姿には、どこか静かな魅力があります。

頼芸の生涯をたどると、戦国の荒々しさの中にある繊細さと葛藤が浮かび上がり、読み進めるほどに「この人のこと、もっと知りたい」と感じさせる不思議な引力が生まれます。

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名門に生まれても、心安らぐ環境ではなかった

頼芸は1502年ごろ、美濃の名門・土岐氏当主である土岐政房の次男として生まれました。
しかし家中には早くから緊張があり、家督をめぐって兄・頼武との対立が生じていたと考えられています。

本来なら寄り添うべき兄弟が、のちに軍勢を率いて争うようになるという現実は残酷です。頼芸は、生まれた瞬間から「優しさだけでは生きていけない世界」を歩む運命にあったのかもしれません。

幕府から認められた守護へ けれど安定は長く続かない

兄との対立や周辺勢力との力関係を経て、頼芸は美濃守護の座を得ます。十六世紀前半には朝廷や幕府から正式に美濃守護として認められ、美濃を統べる人物となりました。

しかし周囲は常に不安定でした。守護代であった斎藤氏の台頭、朝倉氏や六角氏など他勢力の動き、美濃国内の対立が次々と渦巻き、頼芸の基盤は常に揺らいでいました。

この時代、守護という地位は想像以上にもろく、確固たる安定などほとんど存在しなかったのです。

戦国武将であり、文化人として生きた「描く人」

頼芸の魅力を語るうえで欠かせないのが、文化への深い感性です。戦や政治に明け暮れる合間をぬって、鷹や水鳥を好んで描きました。その筆致は鋭さと気品を併せ持ち、後世には「土岐の鷹」と称されました。

戦国という荒んだ時代にあっても、心のどこかに静かな翼を抱いていたような頼芸の姿。
その美意識は、単なる武将像を越え、ひとりの人間としての魅力を強く感じさせます。

2ページ目 道三との断絶 〜 追放と漂泊の果てに

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