この男こそ戦国最強サバイバー!追放と復帰を繰り返し美濃を揺らした武将・土岐頼芸の生涯:2ページ目
道三との断絶が運命を大きく変える
頼芸の人生を揺るがしたのは、家臣からのし上がってきた斎藤道三の存在でした。当初は頼芸がその才覚を見込み、守護代一門の名跡を継がせるほど信頼していましたが、やがて道三は美濃の実権を握り、頼芸は名目だけの守護へ押しやられていきます。
美濃国内の対立が激化する中、頼芸と道三の溝は深まり、ついに大桑城攻めをきっかけに頼芸は美濃を追われました。道三が権力の表舞台へ進む一方で、名門・土岐氏の威光は急速に薄れていきました。
※参考記事:
斎藤道三は油売りにあらず!?実は親子二代で成し遂げられた「国盗り」の真実【前編】
追放と漂泊の果てに
頼芸は美濃を追われたのち、尾張の織田信秀を頼りました。一時は信秀の支援で美濃への復帰を狙ったとも伝わりますが、大きな成果にはつながらず、周辺諸国へ頼りながらの漂泊を続けたと考えられています。
その後、美濃には斎藤氏の後を継いで織田信長が入り、土岐氏が守護として持っていた地位は完全に過去のものとなりました。頼芸はそれでも、「美濃守護」としての名目や土岐氏の当主としての誇りを捨てずに生き続けました。
視力を失っても揺るがない気品
晩年の頼芸は出家し「宗芸」と号したと伝えられています。視力を失ったという伝承も残されており、その真偽は史料から確定的ではありませんが、長く流浪した老武将がなお静かな品位を保っていたという印象的なエピソードとして伝わっています。
1582年ごろ、頼芸は甲斐方面に身を寄せていたのち、美濃で八十代前半の生涯を閉じたとされています。
長い旅路を経て帰った故郷で、土岐氏最後の守護として幕を下ろしたその最期には、静かな重みがあります。
追放されても、折れない人だった
頼芸の生き方を振り返ると、ひとつの言葉が自然と浮かびます。
耐える。
それは何も我慢し続けることではなく、今を生き抜くための強さそのものだったのでしょう。何度追われても、何度流されても、頼芸は家の名と自分の生を捨てず、しなやかに歩き続けました。
戦国の中でも静かに輝く土岐頼芸という人物。
その姿は、時代を越えて読み手の胸に静かに残ります。
参考文献
谷口研語 『美濃・土岐一族』(1997 新人物往来社)
