日本の中心に息づく逆臣・明智光秀の血──「本能寺の変」の“その後”に残された末裔たちの真実
「敵は本能寺にあり!」
この一言で知られる明智光秀。戦国史最大の事件「本能寺の変」で、主君・織田信長を討った男です。
しかし、光秀の天下はわずか十一日。あまりに短い栄光のあと、彼とその一族には過酷な運命が待っていました。
――本能寺の変の“その後”、いったい何が起きたのでしょうか。
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“三日天下”の終わり――光秀の最期
1582(天正10)年6月、京都・本能寺で信長を討った光秀は、急ぎ京に入り、政権掌握を試みます。
しかし、同じく中国地方で毛利攻めを進めていた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、すぐさま和睦して軍を引き返しました。いわゆる「中国大返し」です。
この迅速な行動によって、光秀の軍は整う間もなく山崎の戦いに突入。わずか十日あまりで敗北します。
敗走した光秀は、近江の山中で落ち武者狩りに遭い、最期を遂げました。享年55。その死と同時に、明智家は天下から“逆臣”として追われる立場になります。
一族の滅亡――残された者たちの運命
坂本城や福知山城には、光秀の妻・煕子や子ども、家臣たちが残っていました。しかし、秀吉軍が攻め込むと、ほとんどの者が命を落とします。中には自害して城を守ろうとした者もおり、その結末はあまりに悲惨でした。
一方で、光秀の娘・玉子(たま)は細川忠興に嫁いでいました。のちにキリシタンとして信仰に生き、「細川ガラシャ」と名を残します。彼女は関ヶ原の戦い直前、西軍に人質を求められた際、拒絶して自害。
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けれどもその死によって、細川家は徳川方の信用を得て生き残りました。つまり、光秀の血は“娘の犠牲”によって生き延びたとも言えるのです。



