大河予習【豊臣兄弟!】秀吉を支えた兄弟の絆…仲野太賀が演じる戦国武将・豊臣秀長の生涯:3ページ目
秀吉の天下統一を見届ける
それからも命がけの奉公を重ねた秀長は、秀吉の片腕として文武にわたり活躍しました。
信長が秀吉に中国攻めを命じた際は、天正5年(1577年)に竹田城(兵庫県朝来市)を攻略します。
秀吉はこの武功を称え、秀長を城代として但馬国(兵庫県北部)の統治を任せました。城代とは言え、百姓の倅から一国一城の主にまで成り上がったのです。
信長からも秀吉と同格の武将と見られていたようで、天正7年(1579年)の三木城攻めに際しては、秀吉経由でなく信長から直命を受けました。
翌天正8年(1580年)には英賀城(あがじょう。兵庫県姫路市)も攻略し、この武功によって出石城(いずしじょう。兵庫県豊岡市)と10万5,000石の所領を与えられます。
天正10年(1582年)に起こった本能寺の変で信長が横死を遂げると、秀長は秀吉と共に謀叛人の明智光秀を討ちました(山崎の合戦)。
その後、織田家中における主導権争いを勝ち抜き、永年のライバルであった柴田勝家を敗死せしめます(賤ヶ岳の合戦)。
かくして秀吉は織田家の勢力に背乗りする形で権力を奪取。次なる天下人として振る舞うに至りました。
秀吉が大坂に本拠地を構えると、秀長はその南を固めるために紀伊国(和歌山県)を中心に64万石を与えられます。
そして秀吉が関白となった天正13年(1585年)には、大和国(奈良県)など100万石の大大名となったのでした。
まさに栄耀栄華を極めた秀長ですが、永年の労苦がこたえたのか、次第に体調を崩すようになります。
天正15年(1587年)以降は戦陣に参列できなくなり、病状が深刻化した天正17年(1589年)ごろからは政治活動についても引退しました。
何とか生き延びて天正18年(1590年)に秀吉が天下統一を果たすまでは見届けたものの、翌天正19年(1591年)に52歳で世を去ります。
秀長の死因は病死と言われていますが、秀長の死が豊臣政権に与えた影響の大きさから、暗殺説もあるようです。
終わりに
今回は秀吉の天下獲りを支え続けた弟・豊臣秀長について、その生涯を駆け足でたどりました。
秀長の死によって、晩年の秀吉が暴走を止められず、豊臣政権が傾く遠因になったとも言われています。
まさに豊臣政権の盛衰を象徴するキーパーソンだったと言えるでしょう。
令和8年(2026年)NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、どんな秀長像が描かれるのか、仲野太賀の好演に期待大です!
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※参考文献:


