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暗殺という非業の最期… 過激な思想で幕末〜明治の日本を揺さぶった異端児・森有礼の生涯【後編】

暗殺という非業の最期… 過激な思想で幕末〜明治の日本を揺さぶった異端児・森有礼の生涯【後編】

前回の記事では、森有礼が薩摩藩から渡欧・渡米し、日本初の駐米公使や思想家として頭角を現した姿を見てきました。

国語を英語に? 過激な思想で幕末〜明治の日本を揺さぶった異端児・森有礼の非業の末路【前編】

「英語で日記を書き、キリスト教に触れ、妻には一夫一婦制を求めた明治の政治家」。こう聞くと、ちょっと現代的で驚きませんか? 幕末から明治にかけて活躍した森有礼(もり ありのり, 1847–1889)…

今回は、彼が教育制度を築き上げ、政治家として活躍する一方で、世論との摩擦から暗殺に至るまでをたどります。

初代文部大臣としての改革

1885年、森は第一次伊藤博文内閣で初代文部大臣に就任します。在任中、学位令、師範学校令、小学校令、中学校令、諸学校通則などを公布し、日本の学校制度を近代的に整備しました。東京高等師範学校を「教育の総本山」と位置づけ、教員養成を強化したことは特筆すべき点です。

また、森は女子教育にも積極的で、「良妻賢母教育」を推進しました。1886年には「生徒教導方要項」を全国の女子学校に配布し、家庭と国家を支える女性の育成を教育方針に位置づけました。

契約結婚と家族

森は1875年、広瀬常と結婚しました。この結婚は「契約結婚」と呼ばれ、日本で初めて婚姻契約書が交わされた例とされています。そこには「夫婦が互いに敬愛すること」「共有物を勝手に処分しないこと」などの条項が記されており、証人は福澤諭吉でした。

結婚生活は11年で解消されましたが、この出来事は日本における近代的婚姻観の象徴として注目されました。その後、森は岩倉具視の娘・寛子と再婚します。彼の子孫には哲学者・森有正らがいます。

2ページ目 「暗殺」という非業の最期

 

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