国語を英語に? 過激な思想で幕末〜明治の日本を揺さぶった異端児・森有礼の非業の末路【前編】
「英語で日記を書き、キリスト教に触れ、妻には一夫一婦制を求めた明治の政治家」。
こう聞くと、ちょっと現代的で驚きませんか? 幕末から明治にかけて活躍した森有礼(もり ありのり, 1847–1889)は、まさにそんな異色の人物でした。
彼は外交官、教育者、そして政治家として日本の近代化に大きな足跡を残しました。しかし、その生涯は波乱に満ち、最後は暗殺という劇的な最期を遂げます。
前編では、彼の生い立ちから海外留学、そして日本初の駐米公使としての活動までをたどってみましょう。
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薩摩に生まれた秀才
森有礼は、弘化4年(1847年)に薩摩国鹿児島城下春日小路町(現在の鹿児島市)に生まれました。父は薩摩藩士の森有恕。
幼いころから藩校「造士館」で漢学を学び、さらに藩の洋学校「開成所」で英語を修めました。当時、薩摩は西洋の知識を積極的に取り入れる風潮があり、森は早くから外国語や海外の事情に強い関心を示しました。
イギリスへの留学と欧米体験
慶応元年(1865年)、森は五代友厚らとともに薩摩藩第一次英国留学生の一員として渡航します。ロンドン大学(ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン)で学び、長州藩の「長州五傑」とも交流しました。
さらにロシアを旅した後、アメリカに渡り、ローレンス・オリファントの誘いで新宗教家トマス・レイク・ハリスの教団「Brotherhood of the New Life」に滞在しました。
ここでキリスト教思想に深く触れ、欧米の精神文化に強い影響を受けます。森はまた、アメリカの教科書を収集し、日本の教育改革に役立てようと考えました。
2ページ目 若き外交官として
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