江戸時代、盗賊たちはどんな方法で窃盗を行っていたのか?手口と犯行の実態を解説
鼠小僧にも狙われた大名屋敷
『鬼平犯科帳』には一人働きをする馴馬の三蔵や石川の五兵衛などの盗人が登場します。
このように江戸時代の盗賊の手口は、一人あるいは少人数で行う侵入盗と、徒党を組んで大勢で盗みに入る押し込みとに分かれていました。
侵入盗が狙ったのが、主に大名屋敷です。
天保3年(1832)に捕縛された鼠小僧次郎吉は、大名屋敷を専門とした盗人で、大名屋敷は見かけの大きさに比べて警備は手薄で忍び込みやすかったといいます。
彼は、伝説で伝えられている義賊などではなく、盗んだ金を庶民に配ったりはしておらず、酒や博打で浪費していたというのが実態です。
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よって鼠小僧がどれほどの金額を盗んだのかははっきりしていませんが、諸藩が江戸藩邸に多額の費用を使っていたことは間違いありません。
やはり大名屋敷は盗賊にとって狙い目だったのでしょう。
大名屋敷には金品があった
『鬼平犯科帳』では、火付盗賊改の取り締まりの対象が町人や百姓となっているため、多くの人々で賑わう江戸の商業地が物語の舞台の中心となっています。
ところが、実際には江戸の街の6割は武家地であり、人口の半分は武士が占めていました。
幕府の基準では、大名屋敷の広さは1万石程度ならば2500坪、5万石程度ならば5000坪、10万石以上で7000坪でしたが、実際にはさらに広く、尾張徳川家の下屋敷で約14万坪、加賀藩下屋敷では約2万坪と規格外の屋敷も少なくありませんでした。
幕末の時期を参考に見てみると、諸大名が持つ屋敷の数は762ヶ所、総面積は750万坪に上っていました。
諸藩の江戸藩邸における年間経費を見てみると、102万石の加賀藩(1747年)で100万1284両、2万石の久留米藩(1815年)で2万7406両、15万石の松山藩(1850年)で1万4004両となっていました。
このあたりのデータからも、先述の通り、諸藩が江戸藩邸に多額の費用を投下していたのは間違いないと思われます。
つまり、大名屋敷には金品がたくさんあったのです。


