江戸の警察官「与力」と「同心」八丁堀七不思議にみる彼らの独特の暮らしぶりとは【前編】
役得によって裕福だった与力
江戸時代の治安は、町奉行所の与力と同心が支えていました。彼らは、現代の警察に相当する役割を果たし、江戸の街の秩序を守っていたのです。
そして彼らの生活は、武士の格式と町人文化が交錯する独特なものでした。本稿では、与力と同心の日常や役割、そして八丁堀の文化を通じて、江戸の治安組織の内情を前編・後編に分けて紐解きます。
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町奉行所の与力の俸禄は平均200石で、任務により御役金が支給されていました。禄高から見れば旗本クラス(将軍に御目見えできる身分)ですが、与力は将軍に謁見を許されない「御目見え以下(御家人)」と位置づけられていました。
その理由は、与力は百姓や町人を扱う身分であり、処刑を行うのは上級武士の仕事ではないと考えられたからです。
実際のところ、200石の旗本の暮らしは意外と苦しかったようで、中間などを雇わない者も多く、また馬の維持も大きな負担だったようです。
一方、奉行所の与力は御目見え以下ではありますが、実質的に町奉行所の業務を担っているため、諸大名や幕臣・寺院・大店の商家などからの付け届けが少なくありませんでした。
大名家からの頼みごとで働くことも多く、大名家から支給される金銭や季節の頂戴物は御出入りと呼ばれ、なかば公認の役得だったといいます。
もっとも『江戸町奉行事蹟問答』には、同心には「与力の勤惰、不正などを注意しても聞かなければ、奉行へ密告する権利がある」とあり、与力と同心は互いを取り締まる相互監視体制となっていたようです。

