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「べらぼう」歌麿ブレイクから入牢〜転落〜衰弱までの真相。史実では違った歌麿と蔦重の出会い

「べらぼう」歌麿ブレイクから入牢〜転落〜衰弱までの真相。史実では違った歌麿と蔦重の出会い

NHK大河ドラマ「べらぼう」見ていますか?いよいよ日本橋に居を構え、伴侶も得た蔦重。さて、居場所がないとやさぐれていた歌麿は、いつ大ブレイクするのでしょう?

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実は、史実では、喜多川歌麿が蔦重の元に来るのは、田沼親子が没落するかしないかの瀬戸際の時期なのです。

歌麿のことを書く前に、さらっと田沼の今後を史実を基に説明します。ネタバレを含みますので知りたくない方はご遠慮してください。

田沼意次の息子、意知が若年寄になりましたが、江戸城内で佐野政言に斬られてしまい、それが元で命を落としてしまいます。徳川家治が逝去すると田沼意次も後ろ盾を失い、翌々日に老中を辞めさせられてしまいます。

田沼意次の代わりに、天明の飢饉で餓死者を出さなかった白川藩の松平定信が老中と抜擢されます。

松田定信が掲げたのは質素倹約を旨にした「寛政の改革」。それは出版業界にも及び、「出版統制令」で艶本や幕政批判や風刺本を禁ずるものでした。狂歌も規制の対象となり、狂歌サロンの大田南畝も幕府の不興を買って、引退状態となってしまいます。

めげずに幕政批判をした蔦重は、ざっくりいうと、財産を半分没収されてしまいます。
さて、どうするか。

そこで目を付けたのが浮世絵の美人画です。ここで歌麿が活躍します。

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ドラマと実話、ここが違う!

  • 幼少の頃から弟分として描かれたが、しかし実際に耕書堂にきたのは蔦重が日本橋に店を構えた後。
  • ドラマでは衆道(男色)に通じるように描かれましたが、そのような史実はなさそう。
  • もともとは西村屋与八と仕事をしていたが、耕書堂に近づく。

喜多川歌麿は生まれは1753年頃とされますが、出生地は不明で、江戸や川越など諸説あります。彼の前半年をおさらいすると…

  • 幼名は市太郎、のちに勇助(または勇記)。
  • 若い頃は妖怪画で有名な鳥山石燕に師事し、絵の修行を積む。
  • 1770年頃に「ちよのはる」の挿絵で絵師としてデビュー。

そして北川豊章の名前で、西村屋の依頼で絵を描いていましたが、西村屋の元を離れて蔦屋重三郎の耕書堂へ。

それが蔦重32歳の1781年ごろとされており、一説には西村屋が鳥居清長を大事にしすぎていたからともいわれています。蔦重との仲介は歌麿を可愛がっていた、絵師の北尾重政とも。

彼の後半を年表にすると…

  • 1781年…耕書堂で最初に手掛けたのは、「身貌大通神略縁起」(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)の挿絵。「忍岡歌麿」名義。
  • 1783年…「歌麿」名義で、吉原俄(にわか)を描いた「青楼仁和嘉女芸者部」「青楼尓和嘉鹿嶋踊 続」を手掛ける。俄とは、あの吉原で行った出し物の祭りですね。
    ※1786年に田沼意次が失脚し、新たに松平定信が老中に!
  • 1786年から1790年…当時流行していた狂歌に、花鳥画を合わせた狂歌絵本を13種刊行。
  • 1793年…「寛政三美人」を手掛ける。
  • 1794年…耕書堂を去る
  • 1804年…54歳で死去

蔦重は、歌麿を住み込みにさせて、缶詰状態にして作品に集中させます。

そして従来の全身像ではなく、顔や上半身を大きく描く「大首絵」のアイデアで「婦女人相十品」「婦人相学十躰」、茶屋の看板娘を描いた『寛政三美人』がヒット。蔦重のよしみで吉原連に入っていたため、女性の表情から性格や運勢を見る「相見」を得意とし、生き生きとした表情を描くことができたといわれています。

2ページ目 歌麿、幕府に捕縛され入牢〜転落〜衰弱

 

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