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悪名高い”開拓使官有物払い下げ事件”の真相!五代友厚の名誉を取り戻した“幻の史料”とは?【後編】

悪名高い”開拓使官有物払い下げ事件”の真相!五代友厚の名誉を取り戻した“幻の史料”とは?【後編】:2ページ目

実は、この大阪公立大学は五代が設立した大阪商業講習所がその前身にあたります。ほかにも、大阪株式取引所(現・大阪取引所)や大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)の設立など、五代が大阪の発展のために成し遂げた事業は枚挙にいとまがありません。

「政商」の悪いイメージが流布され、立派な功績も打ち消されてきた五代友厚ですが、ようやく彼の正当な評価がされてきたと言えるでしょう。

渋沢栄一との交流

ちなみに五代友厚は近代日本経済の父・渋沢栄一と対比されることもあり、「東の渋沢、西の五代」と言われています。

立場は違えど、幕末期にともに西洋を訪れ、そこで得た最新の知識や技術を日本の国力増強に生かした点は共通しています。

例えば1878年には渋沢が東京株式取引所を、そして五代が大阪株式取引所を設立しました。

また渋沢が一橋大の前身である商法講習所の設立に携わり、五代も大阪市立大につながる大阪商業講習所の設立に関わるなど、各分野で共通する歩みもみられます。

両者の直接的な交流は、五代が手がけた国産の藍の生産に渋沢が協力したことが挙げられます。

渋沢は血洗島村(埼玉県深谷市)の豪農に生まれ、幼少期に藍玉の取引で才覚を発揮したこともあり、親戚を五代に紹介するなど支援を惜しまなかったといいます。

一方、渋沢による五代の人物評には、鉱山事業で財をなした五代に「考えが浅薄」「利己的」など、厳しい評価もみられます。

農民出身で「官尊民卑」の打破を掲げる渋沢と、薩摩藩の武士だった五代の間には価値観の違いもあったようです。

参考資料:中央公論新社『歴史と人物20-再発見!日本史最新研究が明かす「意外な真実」』宝島社(2024/10/7)
画像:photoAC,Wikipedia

 

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