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日本最古の悲恋!十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察〜幼馴染みから政治の犠牲に【後編】

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高市皇子の墳墓と推定するマルコ山古墳

一方、高市皇子は、十市皇女が亡くなってから18年後の696年(持統天皇10年)に薨去しました。この間、高市皇子にはさまざまな出来事が起こっています。

まず、679年(天武天皇8年)5月6日には、天武天皇主導のもとで「吉野の盟約」として知られる重要な儀式が行われました。これは、天武天皇をはじめ、皇后(鸕野讃良皇女)、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、川島皇子、忍壁皇子、志貴皇子らが吉野の宮滝に集い、互いに助け合うことを誓い合ったものです。この盟約によって、草壁・大津・高市の三皇子による皇位継承の序列が確定したとされています。

「吉野の盟約」は、壬申の乱を経験した天武が、自らの死後に皇位継承をめぐる争いが再び起こることを恐れたために行われたと解釈されています。しかし実際には、天武朝の政治において重要な役割を果たしつつあった皇后・鸕野讃良の意向が大きく働いていたと考えるのが妥当でしょう。すなわち、彼女は天武が生前のうちに、自らが産んだ草壁皇子の皇太子としての地位を確固たるものにしようと画策していたのです。

686(天武15)年、天武天皇が崩御すると、まもなく皇位継承2番目であった大津皇子が謀反の嫌疑で死に追いやられます。ところがその3年後に、今度は草壁皇子が病気により薨去してしまいました。

草壁は、天武の2年3ヶ月にもわたる殯(もがり)の期間、たびたび皇族・官人を率いて一連の葬礼を指揮し、着々と皇位にむけてその存在を印象付けていたのです。草壁の死に鸕野讃良は嘆き悲しんだに違いありません。彼女は、草壁の子である軽皇子(文武天皇)の皇位継承を望みますが、7歳と幼かった軽を皇太子に立てることはできませんでした。

そこで、皇后は天皇に即位して持統天皇となり、孫の軽が皇太子となれる年齢に達するのを待ったのです。このとき、その中継ぎとして高市を皇太子待遇の太政大臣に任じ、幼い軽の後見をさせたと筆者は考えます。

高市はそのような持統の期待によく応え、皇位への執着をみせることなく政務に励みました。彼は、明日香浄御原令の制定や藤原京の造営などの事業において中心人物として功績を重ねていきました。しかし、696年(持統天皇10年)に42歳で亡くなります。

3ページ目 持統の後継問題、軽皇子が皇太子に

 

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