日本最古の悲恋!十市皇女と高市皇子の純愛をさまざまな角度から考察〜幼馴染みから政治の犠牲に【後編】:3ページ目
彼の死後、すでに50歳を超えていた持統の後継問題が、皇族や官人たちの間で議論されました。このとき、葛野王が草壁皇子の直系による継承の正当性を述べ、その発言が決め手となり、翌年に軽皇子が皇太子となったと記録に残っています。この葛野王こそが、十市皇女と大友皇子の一人息子でした。
おそらく高市は十市の薨御後、何かと葛野王のことを気にかけていたに違いありません。それは、十市や但馬皇女など天武の子女たちを保護していたのと同様に、もし自分の身に何かあったとき、葛野王が持統のもとで生きていくための道筋を語っていたのではないでしょうか。
高市皇子の墓は、『延喜式』諸陵によれば「三立岡墓」であり、大和国広瀬郡に所在するとされています。しかし、その周辺には、太政大臣という高位の皇族にふさわしい終末期古墳は確認されていません。
そこで筆者は、「三立岡墓」は高市の初葬墓であり、その後、檜前の聖なるゾーンへ改葬されたのではないかと考えます。
持統天皇は、高市皇子および葛野王の尽力により、紆余曲折はあったものの、念願であった草壁皇統の確立を果たしました。中でも高市皇子に対する感謝の念は、特に深かったのではないでしょうか。
そのような高市にふさわしい墳墓は、天皇の墳墓に次ぐものでなければならないでしょう。
飛鳥時代中頃から、天皇墓には八角形墳が採用されます。それが、第34代舒明天皇陵(段ノ塚古墳)、第35・36代皇極・斉明天皇陵(牽牛子塚古墳)、第38代天智天皇陵(御廟野古墳)、第40・41代天武・持統天皇合葬陵(野口大墓古墳)、第42代文武天皇陵(中尾山古墳)です。
しかし、天皇位に就くことはなかったものの、この八角形墳に眠る人物がいます。それが草壁皇子で、聖なるゾーンの南西にある束明神古墳がその真陵と考えられています。
その北東の方角数100mの場所に変わった形の古墳が存在します。それが日本で数例しかない六角形を成しているマルコ山古墳です。


